「tdyno.310-(13:47).mp3」をダウンロード

世界最古の法律とされるハンムラビ法典には、「自由民同士の場合は「目には目を」」(相手の目をつぶしたら、その贖いのために自分の目がつぶされる)だが、自由民と賤民では「自由民が賤明の目を失わしても自由民は金を払えばよい」という事になっていました。(これだけ聞くとハンムラビ法典は現代法より劣っているように見えますが、その思想はあるいは現代の法律より優れている可能性もあります。)

かつて江戸時代には武士が「切り捨て御免」と庶民を殺すことができた(武士もほぼ人生が終わりになるほどの待遇は受けますが)ことや、我が子をお金と交換して売る風習もありました。ヨーロッパでも同じで、シェークスピアのベニスの商人でも「人間の肉を担保に金を貸す」という話はありますが、やはり道義的に疑問とされていました。

でも、近代になりさらに男女を含めて人間が平等であるという思想が行き渡ると、「命とお金」を引き替えにするという行為は野蛮であるとされてきました。「1億円払うからお前を殺す」というのはもちろん成立しませんし、「いまからお前を殴るので、あらかじめ100万円を渡しておく」というのもダメです.

・・・・・・・・・

このブログでも書いたように、1970年代にフォードピント事件が起こり、「事故が起こることが予想されている車を販売してもよい。死亡事故が起こったらお金で解決すれば良い」というフォードの社会の決定は、本当に車の欠陥のために死者が出始めると、社会はフォードを許しませんでした.当然ですね。

「このまま放置していると死者がでる」というものをそのままにして、補償した方がお金が安いということになると、遊園地の遊具や危険なエレベータなどすべてに及び、そのうちにお金持ちが「どうせ傷つけてもお金さえ出せば監獄に入らなくても良い」という事になってしまいます.

人間は不完全なものですから、本心から安全を期してやっても死亡事故が起こることもあります。そんなとき、心から謝罪し、せめてお金でというならわかりますが、お金を払えば殺しても良いというのは野蛮な行為とされます。

その点で、現在、また野蛮な方向へ向かう動きがあります。その一つが「禁煙運動」で、もう一つが「経済優先の原発政策」です。この2つの思想は、「お金が健康に優先する」ということにつながります。

「なぜ、他人を禁煙させなければならないの?大人だから本人の自由にしたら」と言うと「医療費がかかるから」という反論が来ます。私はタバコをすると不健康になるとは思っていませんが、たとえ喫煙が健康を害する原因になっても、「医療費がかかるから禁煙」ではなく、「健康を損なうから禁煙」という理由でなければダメです.

もともと、日本国憲法は日本人1人1人が自らの幸福を求める権利を認めており、「公共に著しい迷惑を掛けない限り」この権利は認められます。「医療費がかかる」というのが「著しい公共の迷惑」になるかというと、人が1人1人幸福になろうとして生活をして病気になった場合、それを「著しい迷惑」とするのは無理があります。

なにかに打ち込み、睡眠時間を削っている人もいます。そう言う人は病気になるから睡眠時間が6時間以内にすることは禁止としたり、大学の運動部の選手は体を無理に使うので寿命が6年ほど短いと言われています。だから、スポーツは禁止とか、タバコは死ぬときに時間がかかるけれど、スポーツ選手はぽっくりだから良いなどと言うことも望ましくありません。

さらに、仮にタバコを吸うと短命になるとすると(私はそうは思っていませんが)、医療費は早く死ぬ分だけ少なくなります。これは統計的に年齢と医療費の関係はきわめてハッキリしていて、年齢が高いほど医療費はうなぎ登りに高くなるからです。

体が弱かったり、体に障害のある人もおられます。野蛮な時代はそのような人は虐待を受けたのですが、今では多くの人がそれなりに幸福な人生を送ることができるように社会が応援するのが筋です。禁煙運動というのは本当に野蛮ですね(医師が患者さんにタバコを止めるように言うのはまったく意味が違います。これは野蛮ではありません。治療行為の範囲ですから)。

・・・・・・・・・

もう一つは、被曝と原発再開問題です。福島では大勢の人が被曝し、結果はどのようになるかは別にして、日本人を被曝から守る法律を違反してまで「経済優先」という声がなくなりません。1年1ミリという法令があるのですから、日本人は一致協力して福島の人たちを1年1ミリ以下にするように全力を注ぐべきです。

このブログで何回もくり返していますが、1年20ミリという被曝量は、1年に胸のレントゲン400回です。また福島に降下した放射性物質の量は約80京ベクレルで広島原爆の186発分に相当します。この量は「危険が予想される」ということで「必ず病気になる」と言っているのではありません。

もし現在の福島の人の被曝が「かならず病気になる」という量なら福島県知事を始め、小学校の校長先生まですべて「傷害罪」で逮捕しなければならず、フォードピント事件と同じく、「死んだ人がでたら補償金を出せば良い」という野蛮なことになります。

私が言っているのはそういうことではなく、「他人に危害を被る恐れがあることを進んでやってはいけない」と言っています.現在の被曝量は「疾病がでてもおかしくない」というものであり、かつそれが「私企業の失敗」によるものですから、被害者を出してはいけないのです.

このような状態でありながら、また同じような被害者を出す可能性があるのに、経済優先で原発再開を求めるのは、「安全かどうか」という前に善良な日本国民が「安心」を得られないので、するべきではないということです.かつてのフォードの経営陣と同じになってしまいます.

私たちは社会が発展し、昨日より今日、今日より明日が良くなることを望んでいます。その点では、これまで1年1ミリできたのに、そして被曝と健康の関係の議論が続いているのに、より危険な方向に進むのは実に残念です。

禁煙運動や原発再開を目指している人はここでもう一度、考えてもらいたいと思います。それは単に一つの事だけを考えるのではなく、社会全体の動き、私たちの発展や希望の意味、そして人生や家族という視点から深く考察して欲しいものです。原発を止めて電気が高くなることはありませんが、たとえ10%高くなっても原発事故で1人の被曝障害者を出さない方が大切と私は希望します。

命とお金を比較する社会に戻らないように!

(平成24115日)