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人間に対立があるのはある意味で当然です。仮に「日本国内で生産される物品やお金を完全に平等に分配する」ということが可能であれば、相当程度、対立は少なくなります。これを目指したのが共産主義やユートピアでしたが、「人間の心」がそれを打ち砕いたのは歴史が示すところです。

ある程度の平等性とある程度の自由のもとで国民が生活したら、立場の違い、利害の対立、そして価値観の多様性があるので、対立が生じるのは当然です。たとえば「原発反対」と「原発容認」のようなことが起こります。

このような場合、ある先生が次のことを教えてくださいました。
「(対立は)ひとまずはやむを得ない。その上で両者は、その根拠を示し、反対の立場のものでもその論証手続きについて行けるように、一歩一歩説明していかなければならない。

相手もまた、自己の利害を離れて、この説明が、論証手続きとして納得できるか、この観点のみから聴かなければならない。議論の裏に隠された意図を忖度すべきではない。これが学問的議論であって、真理のみに従うというこのルールを守る限り、主張の全く異なる両者も学問共和国の協働する市民であると思います。

敵ながらあっぱれと思うことが出来るわけですし、やがて友になる可能性も生まれます。両者が自分の最初の出発点や利害にとらわれずに、真理の神のみに忠実な学問的議論をやれば、合意の余地は、論争の出発点においてよりは、ずっと拡大する。

こうして拡大した社会的合意を基礎に、政策的選択をおこなう。社会的合意を拡大する、こうした方法以外に、利害の異なる人々が、社会の進路を共同で決定することは出来ないと思います。」

・・・・・・音声が続きます・・・・・・

1)故意に学問的議論に対立を入れ込み、混乱させる場合、
2)議論の裏に隠された意図を忖度ばかりする場合、
3)議論ではなく相手の人格攻撃を中心とする場合、
などが日本では極端に多いように感じられます。その意味で、
4)本来は合意できるのに対立する、
ことになり、それをおもしろおかしく言う方がマスコミが喜ぶというかなり愚劣な状態を作り出しているような気もします。
(平成24106日)