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さて、理科系の学問は30年以内には事実が判明してしまうので、無理な「学説」というのは通りにくい。だから、やや対立を避けてみんなで力を合わせて研究をしようということになる。

それでも、リサイクルや地球温暖化のように単純な自然科学の活動ではなく、自然科学と社会活動が混在すると、途端にもめ事や言い争いが発生する。時には立派な学者を罵倒する素人(その分野の専門知識が無い人という意味)が出てきたり、逆に立派な学者であっても社会的なことに負けて発言する人(最近では御用学者といい、少し前は曲学阿世の徒と言った)が現れたりするから面倒だ。

また、文科系の学問は現在でも2000年以上まえのギリシャ文学、哲学などが研究されているように、「なにが真実か」というのがわかりにくいものが多い。最近の学問でも経済学などは常に対立していて、かなり高名な学者でも「懺悔の書」という名前の「自分の学問は間違っていた」という書籍を出版したりする。

自分の「学問的結論を懺悔する」というのは実に矛盾した表現だ。というのは、少なくとも自然科学では「学問的結論」というのは、確定された事実あるいは理論から論理的に導き出された結論であるから、一人の人間が心の問題として「懺悔する」という対象ではないからである。

それは単に計算を間違ったとか、論理展開でミスをしたという類いのもので、それほど高級なものではあり得ない。つまり自然科学から見ると学問は頭脳活動だから、懺悔というのはあり得ず、もし懺悔ということがあるなら、それは「故意に実験データをねつ造した」という類いのものである。

この経済学者の「懺悔」というのは、「自分に学力が無かった」という意味での懺悔であるが、その学力が無かった人が日本の経済学者のトップが就任するような役職に長く就いて政策の指導を行ってきた。ということは経済学者の多くが彼を支持したことを意味している。

ここまで整理をすると一つの簡単な結論が得られる。それは「どうも文科系の学問は、学問的結論が得られるための事実と論理の20%ぐらいしか分かっていないときに、100%分かったような答えを出す」ということだ。

なぜ、20%しか進んでいないのに100%の答えを出すかというと「社会に求められるから」ということになる。理科系(特に工学系)の感覚で言えば「5回に4回は墜落するヒコーキでも、社会が欲しいと言うから飛ばす」ということであり、「もし墜落したら懺悔する」という感じである。

ヒコーキを運航する時に5回に4回は墜落する可能性があることが分かっていて(学問的に言えば全体像の20%しか分かっていないことを提案している学者が分かっていて)、ヒコーキを飛ばし、墜落して人命を失ったら、社会は「懺悔ではすまない」と言うだろう。

それでも、経済学に懺悔が許されるのは、もともと文科系の学問自体が「学問ではなかった」のか、「学問を逸脱する人たちが主流を為していた」のかどちらかと考えられる。

たとえば、経済活動として大きな負の結果を出したと言われるリーマンショック(サブプライムローンや多重保障などの経済システム)の中心となったのはノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者たちだったのだが、それを考えると経済学とは学問ではないか、知らず知らずのうちに逸脱した学問になってしまったのだろう。

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ところで、自然科学でも同じようなことが起こったのがタバコ、リサイクル、地球温暖化、そして最近では被曝の問題などである。静かな自然科学の中に突如として「罵倒、バッシング、懺悔」など人間的な要素が持ち込まれた.その様子を見ると、自然科学の専門家以外の人が自然科学者の発言や著作物を罵倒する、新聞がそれに追従する、そのうち、自然科学の専門家の中に「曲学阿世の徒」が現れて事態が混乱するという経過をたどってきた。

そのうち、専門以外の人が「事実を隠蔽して対立を煽る」という行動にでる。その背景には、1)思想的、2)金銭的、3)有名になりたい、などがあり、それらは学問的ではないので、到底、従来の学者は太刀打ちできない。

たとえば、私自身のことで言えば、地球温暖化について一般的に言われていることと異なることを書いたら、私のウィキベディアが悪意に満ちたものに変わった。ウィキペディアというのは多くの人が「ネットの百科事典」として知られており、それを使って個人を誹謗するという手段に出たのである。

この著者はおそらく引用文献、文体から見て東北大学か東大の教師であると推定されるが、私自身は警察ではないので、捜査をすることはできない。実に巧みな方法である。もちろん著者は名前を出さないし、自らウィキペディアを書いたとも公表しない。もちろんやましいからである。

ウィキベディアに書き直しを求めたら酷く複雑な手続きを言ってきた。「書き直したいなら、複雑な手続きにそってやれ」と居丈高である。つまり民間の会社が勝手に個人を誹謗する手段を作り、それに苦情を述べる個人に対して「おれの決めたことに従え」というのだから、まったく困ったものである(ぼやきではない)。

このような場合、相手は私を誹謗する事だけが目的では無い(私と利害関係はない)。売名などの目的を持っているからなかなか対応が難しく、相手はそれを知って攻撃をしてくる。対立を煽る人というのには共通点があって、まず「人物、人格を攻撃してくる」、そして「事実と違うことを言う」というという二つである。

つまり、対立を煽る人というのは、「事実に近づきたい」という私たちの目的とは全く違い、「事実から遠ざかることによって、対立を深めたい」という目的をもっているので、事実の確認や議論はまったく意味をなさないのである.

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このように社会に「人物、人格を罵倒し、事実を故意に違えて言う」ことによって対立を深め、事態を混乱させたいという行動にでる人たちが居るのは仕方が無いことだろう.まさに「世に盗人の種は尽きまじ」ということだが、もっとも大きな問題は「対立を煽る人」がこの民主主義の社会、学問的な活動が許されている社会の「悪」であるということがまだ確定していないことだ。

盗人とは違い、サギ、虚偽、名誉毀損、分かっていないのに分かっていると言う経済学者などは知能的犯罪で、しかもその影響が知的社会では甚大なのにまだ犯罪として認知されなかったり、認知されてもどのような行動が知的犯罪に属するのかの議論が明確では無いことによる。

私は、経済学ばかりではなく、医学、環境問題、原発問題などに見られるような知的犯罪について、その定義をハッキリさせ、犯罪として社会的に措置をとることによって、民主主義というものが成長していくと考えている。

マスコミの誤報、NHKや朝日新聞の問題も、「知的犯罪」の定義が明確ではないところに根があると考えている。

(平成24826日)