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「対立の構図」を整理し始めて、バッシング覚悟で「理科系」、「文科系」ということをまず書いてみました。もちろん、理科系・文科系というようなおおざっぱな区分で物事を見るのは不適切なのですが、整理というのは、少し問題のある表現で切り込む方が鋭く本質に迫ることができる場合もあり、その意味もありました。

次に進もうと思っておりましたところ、読者の方から非常に有意義なご指摘をいただき、「ヘルムホルツ」という題名で一つ書きたくなりました。

19世紀の後半、熱力学の大家にヘルムホルツというドイツの学者がいました。なにしろ「ヘルムホルツの自由エネルギー」という名前がついているぐらいの立派な学者だったのですが、彼が大学を退官するときに次のようなことを述懐しています。

「ギリシャの哲学なら2000年前の書物も残っているかも知れないけれど、科学(自然科学)は30年も経ったらどんな立派な本も捨てられる。だから私は名著を書けない」

確かに彼は熱が専門でしたから、晩年は懸命になって「太陽はなぜ光っているのか」という問題に取り組んだのですが、なにしろまだキュリー夫人が核分裂を発見する前でしたから、太陽の熱を解明することができませんでした。

また、絶対温度の単位にその名前が残っているケルビンは、ライト兄弟が初飛行する10年ほど前、「空気より重たいものは空を飛ぶことができない」と書きました。これもまた人間の知恵の限界を示しています。

そんなことを言えば、後のコンピュータの世界最大の会社になるIBMの創始者は、ノイマンが発明したコンピュータを知って事業にのりだしますが、その時に「この機械は全世界で5台ぐらいは売れるだろう」と言っています。

このような科学の難しさと人間の頭の限界をイヤと言うほど味わっている自然科学では、「自分が正しいと考えている事は正しいはずはない」という確信があります。それが「相手を罵倒する対立」にはならない一つの理由ではないかと思うのです。

それは同時に「人間の知恵に対する畏敬の念」でもあります。人間の脳は大したことはありませんが、その反面、長い時間の中では今、思いつかないようなものや論理を生み出していく力があります。「知恵を信じる」、「教育を信じる」、「自分は小さい」という「発展に対する素直な尊敬の心」が科学にはあるような気がします。

対立のない静かな研究環境の中にあった私が、人を罵倒する学問を身近にしったのはリサイクルと資源の関係について学会で発表したときであることは何度か書いたことがあるのですが、それから以後、対立の構図の中に投げ込まれ、いまでもうろうろしているように思います。

ただ、対立の構図を書き始めて、対立の原因は「事実認識が違う」、「論理展開が違う」と言うほかに、「錯覚・誤解」、「ウソ・曲解」、そして「思想・利害」があることを強く感じます。

(平成24825日)