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(内容が挑戦的なので一言:ここでいう「文科系」とは文科系の学問の全体的な傾向を示していて、個別には異なる学問もあることを最初にお断りしておきたい・・・対立の構図を整理したら、新しい対立ができるというのも可笑しいので)

先回の「対立の構図」で「理科系の人間は対立を恥ずかしいと思う」と書いた。もし学問が進んでいればほぼ全員が同じ結論になるはずだし、結論が異なれば研究が足りないので、不明な部分があるか、誰かがウソをついているということになる。

いずれにしても、意見が対立したところで議論を中断し、なにが不足しているのかを検討し、「じゃ、もう少し研究してからもう一度、議論しよう」と言うことになる。人間は事実を確認して、人間の頭脳で論理的に導き出される結果が「知的財産」であり、論理的に考えて複数の結論があるときには「おれは・・・思う」というその人のワガママに過ぎないと理科系は考える。

それに対してどうも文科系の人(たとえば経済学、社会学、心理学など)は意見が違っても恥ずかしくないように見える。それどころか、むしろ意見が違うのが当たり前で、「論争」に勝ってこそ立派な学者だという雰囲気もある。

論争をよく見ていると、まず「事実を共有しようとしない」、そして「論理的に詰めていこうとしない」、さらに時によっては「人によって(学問とは別の)目的があるらしい」という感じがする.経済学や心理学分野では、学者同士で罵倒し合っていることがある。実に不思議なことだ。

いがみ合う前に事実を共有する努力をすればよいのに、なぜ、事実を共有しようとしないかというと、「事実」が余りに多くあって、どれが事実なのか分からない。もしくは、どれもこれも「事実」なのだが、どれが大切な事実なのか、なにが些末なのかということすら選択基準を持っていないように見える.

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また「論理的に詰めていく」ことをせずに、突然、飛躍する.私がこのことを強く感じたのは「世代間倫理」という倫理の分野が登場してきた頃、この分野で有名な哲学者の書いた書籍を3冊ほど読んだことがある.文章は難解だし、本は厚く、なかなか大変で、ものすごい量の文字が並んでいる.でも、私の知りたかった事は書いていなかった。

つまり「なぜ、現世代は未来世代に対して責任があるのか?」、「これまでの世代が未来世代に対して責任を取った例があるのか?」、「これからどうなるかを予想できる手段はあるのか?」といった基本的な事が書いていない.その代わりに、あるところに突如として「世代間には倫理があるから、現世代は未来世代に責任がある」という原理が登場する.

名古屋大学時代だったので(総合大学だからという意味)、哲学の先生にどうしてこのような論理が通るのですか? その人がなぜ有名になるのですか?とお聞きした.そうしたら「いやあ、その通りです.最も大切なことはえてして直感なんですね」と言われた.

学問分野が違うから、私が哲学の考え方を批判しても仕方が無いが、直感でもっとも重要なことを決めるなら、それ以下の小さいことを精密に議論しても意味が無いように思った。

もう一つ別の例: 今、南京事件というものに取り組んでいるが、おもしろいことに無限に議論がある。いわば研究者一人に一つの意見があるといっても言い過ぎではない.また研究者と違っても、この事件に関心のある人が多く、その人達がまたいちいち違う見解を述べておられる。

南京事件の本は大量に販売されているし、事件を扱った雑誌の論評などを入れると膨大な数に上る.それらの多くが「同じ事を別の表現でくり返している」に見える.それらを読んでいるとなんとなく「時間を無駄に使うのを楽しんでいる」ような感じさえするのだ.

上海から南京への日本軍の進撃と中国軍の後退、その間における日本軍の増強と南京政府の動向、南京攻撃の直前の南京城内の動き、人間の数などは、研究者によってほとんど差が無い.さらに南京攻略戦が始まってからも、おおよその戦闘時間、戦闘の様子、結果なども明らかで、紛れがない.

問題なのは南京が陥落して大量の投降兵(投降したからと言って捕虜ではない)が出たあたりから2,3日のことだけが問題だが、これも、両軍と市民の動向を追っていくと、人間の動き自体にはそれほど事実認識に差が無いようだ。問題は最後の最後、つまりその人達が「どうなったか」というところで、無限に発散する.そして、どこが問題なのか「差を示す明確な比較表」すら作られていない.

「理科系」である私はここで唖然とする。問題は最後の最後にあるのだから、そこを整理するために研究しているはずなのだが、その結果が見当たらないのである。これを「世代間倫理」と同じように解釈すれば「明確な比較表を作ると議論が単純になって、論争が終わりになり、ケンカができない」という感じすらする.

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理科系の私が言うと文科系から激しいバッシングが来るかも知れないが、自然科学でいうところの「科学」ができるのを待っていると現実の社会に役立たないのでフライングしているように見える.つまり「まだ墜落の可能性のある航空機だが、どうしても飛ばさなければいけない。悠長なことは言ってられない」という感じだ.

「ニューヨークに行く必要があるのだから、墜落するという人も居るし、墜落しないという学者もいるから、飛ばしてしまえ!」と言っているようだ。経済学なども特にそうで、バブルが起こったら、それまでバブルのバの時も言っていなかった経済学者が悠々とバブルを解説しているのを見て、強い違和感をもったものだ.

自分の学問が間違っていたのだから、しばらくは発言ができないはずだが、そうでもない。政治学者などが選挙結果を予測し、まったく外れているのに、再び同じ人がテレビに出てくるなども同じである.予測が当たらないのは学問が完成していないからだから、その人が話すことは学問ではなく、素人と同じという事になる。

文科系の学問が、理科系が考える学問ではないかどうかについては、また機会を見て文科系の人に聞いて見たいと思う.まだ、だれも学者としてなにも語れない初歩的段階にあるのか、そんなことを言っていたらいつまでも学問的成果をあげられないので、少しのフライングを承知で苦労されているのかもしれない。

ところで、理科系と文科系がハッキリ分かれている国は少ないが・・・

(平成24816日)