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人間には「対立」というのがある。自分の意見が正しくて、相手が間違っているという論理をたてるのだが、理科系の私にはなかなか理解ができない。もし自分が「何の意図もなく、先入観も無い」状態で、相手も「ウソをついていない」場合は、「違う意見になる」ということがあり得ないように思うからだ。
多くの人は「そんなことはない。事実、この世は意見が違う事ばかりだ」と言われるだろう。でも「理科系」の私には「意見が違う」と言うこと自体がおかしいように思われるのである。
第一の問題は、自分が正しくて相手が間違っているのか、自分が間違っていて相手が正しいのかは、自分とその相手がいくら議論しても決まるものではなく、お釈迦様に聞いて見なければならない。「なぜ、ご自分のご意見が正しいと思うのですか?」と聞くと「私がそう思うから」という自信たっぷりの方がおられるが、ある人間が「正しい」と判断したことが「本当に正しい」かどうかは本人には分からないはずだ。
「自分の生きているうちはごまかせる」というぐらいはいけるだろう.
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この「対立の構図」で整理をしてみたいと思っているのは、このことではなく、第二の問題:「意見が対立するというのは、分からないことか、隠していることがあるから」ではないかということだ。
自然科学(普通には科学ということが多い)は「自然現象を解明する」ことが主な仕事で、ついでに「それを応用して工学、農学、医学などを発展させる」という仕事もある。自然現象というのは太古の昔からある原理原則で成り立っているので、「人間が分からない」ということがあっても、「意見が存在する」と言うものではない。
たとえば、かつて人間は「宇宙の中心は地球だ」と信じていて、科学もそれを支持した。でも、これには前提があり「人間の目で見る限りの空」ということであり、かつ「ある種の星(後に惑星であることが分かるが)が逆行することがあること、太陽は往復運動をするはずなのに毎日東から出てくる・・・などはまだ解けない疑問として残すという仮定に基づけばということである。
しかし、望遠鏡が誕生すると「地球は太陽の回りを回っていて、太陽も宇宙の中心ではない」ということがわかる。でもそれも「望遠鏡でみるという前提つき」である。でも今のところ、それが科学なので「地動説」に異議を唱える学者はいない。
ガリレオが「地動説」を唱えたとき、有力な科学者がガリレオに反撃を加えたのではなかった。聖書を信じる教会が彼をバッシングした。科学者は事実を明らかにしようとしているので、ガリレオの地動説が事実ならそれは進歩であり、なにもバッシングする対象ではないからである.
ダーウィンが「進化論」を唱えたとき、それにバッシングを加えたのはこれも牧師であって科学者ではなかった.もし科学者がダーウィンを批判するなら、ダーウィンのデータの科学的な解釈に誤りがあるか、あるいは自分がダーウィンと同じように世界一周をしてきて、つぶさに生物の生態を観察し、反論をしなければならない。
でも、科学者は基本的には「自然を明らかにする」と言うことだから、反論をしても意味が無い。「そんなこともあるのですか!」と感心するのが普通だ.
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科学の論文というのは、実験データ(理論でも良い)を示し、それを整理し、専門家なら誰でも合意できないと結論にならない。実験や理論で合理的と(誰もが)判断できる段階にないと結論は出せないのだ。それまでは単に「酒場の独り言」にしか過ぎない.
私たちは良く仲間や学生と飲んで話をする.その時には「あのデータはこんな風に思うのだけれどどうだろうか?」と話す。そうすると、そこで議論になり、不足が分かり、研鑽を積む.私たちはただ「自然を明らかにする」というのが目的だから、別にいがみ合う必要などない。
若い頃から私がやってきた分離工学、資源、材料などの分野で、「科学的論争」などはなかったし、まして「バッシング」などを経験したことなかった。議論して私が不十分だったら、頭をかきかき再登場するだけである。
ところが、忘れもしない1998年のある学会で、私と学生が「リサイクルは資源を余計に消費する」という計算結果を発表した.そうしたら、私は会場から「売国奴!」とバッシングを受け、学生は攻撃を受けて真っ青になって帰ってきた.その頃、私はリサイクルでお金をもらっている訳でもなく、先入観もなく、ただ社会がリサイクルを始めようとしていたので、それを分離工学と材料工学の手法を使って解析したに過ぎなかった.
正直言って、当初はなにを非難されているのかということ自体が不明だった.そこで、慌てて関係した文献を調べ直してみたら、やはり学問的に計算しているものは「リサイクルは消費を高める」というものがほとんどだった.
ただ、当時、「ライフサイクル・アセスメント(LCA)」という新しい学問の手法が登場して、私たちのような伝統的な学問で計算した結果と違っているものもあった。そこで、LCAで計算している人と何回も研究会をしたが、結局、どちらが正しいかはなかなか分からなかった.新しい学問は大切なものだが、まだ未熟なので、これまでの学問と内容を合わせるということができなかった。
それでも、お互いにバッシングするとか、そういうことは無かった.ただ、伝統的な学問で計算するとリサイクルは資源を余計に使い、LCAで計算すると有効な場合があるということがわかり、「研究を続けましょう」と言うことになっただけだった.
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ところが、そのうち、雲行きが怪しくなった.私が書いた最初のリサイクルの本は「フランケンシュタインの息子たち」という題名が、出版時には「リサイクルしてはいけない」となった。私がフランケンシュタインを出したのは、自分が科学の力で作ったものが、自分を襲ってくる(フランケンシュタイン博士が作った怪物が博士を襲う)ということと、現代の環境問題が類似であるという解釈を題名にしたのだった。
それからというもの、私も世の中の動きに巻き込まれ、対立の中に入っていく。それから程なくしてある本に「武田邦彦はウソをついているのか」という題名がついたとき、「ああ、科学者でもウソをつくとみんなが思っているのだな」ということを知った.
(平成24年8月15日)