世界には約60億人を超える人たちが生活をしています.その一人一人は、それぞれ自分、家族、国家、そして世界を考えながら、それぞれの人の人生観や価値観に従って生きています.
たとえばここに「節約が大切」と思っている人がいるとします。その人がなぜ「節約が大切」と思っておられるのかはハッキリしません.普通に考えると「お金を貯めたい」のか、「地球環境を考えてのこと」かどちらかのように思います。でも、この二つは個人の損得と地球環境ですから、全く違うものでかみ合わないはずです。
ある人(Aさん)が「お金を貯めたい」と思って「節約」をしたとします。昔なら銀行が発達していなかったので、節約して余ったお金をタンス預金する人も居たと思いますが、今ではほとんどの人が銀行に預けるでしょう。
銀行に預けたお金は銀行の金庫に入っている訳ではなく、直ちに貸し出されます。銀行預金の利子がどんなに少ないと言っても、利子がつきます。一方、銀行は町の一等地に店舗を構え、冷暖房や電灯をつけ、世間の平均より高い給料をもらっている銀行員が働いています。かなりの経費がかかるのでいくら利率が低くても、預金されたお金を運用しないとやっていけません。
かくして銀行はできるだけ金庫のお金を減らして貸し出ししようとするのは当然です。つまり、節約してお金を余し、それを銀行預金すると、そのお金はすぐ別の人が使います。銀行の本来の働きは社会で余剰となったお金を預かって、それをお金を必要とする人に回すことによりお金の効率的な利用をはかることにあるわけですから、社会の正常な働きです。
仮に1年ほど銀行にお金を預けたAさんが、銀行から引き出して自動車を買ったとします。そうするとAさんが節約したと思っているお金は、銀行から借りた人が使い、Aさんが使いますので二度使われます。つまりAさん個人も節約したことにはなりませんし(お金を使う時期がずれただけ)、社会はAさんが節約した分だけ2倍の消費をすることになります。
Aさんは日頃から「私は環境が大切と思うから、タクシーを乗らずにバスを利用するのよ」と言っていました。彼女がタクシーに乗ればそれだけお金を使いますから、お金が余らずに預金できなかったでしょう。彼女はいったい、何を考えているのでしょうか?
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かつて、たとえば江戸時代ですが、貨幣経済が発達していない頃、特殊な場合には本当の意味での「節約」は可能でした。たとえば、薪(たきぎ)が足りないとき、少し寒いのを我慢して囲炉裏にくべるのを少なくするというようなケースです。それでも、もし自分の裏山が充分に大きければ、むしろ積極的に薪として使った方が裏山を守ることもあります。
ただ、貨幣経済ではないので、「使わない分だけお金が余る」という事はありません。使わない分だけ「物」が余りますから、それはまた別の機会に使える場合があるということになります。
この話は主婦の方はピンと来ないかも知れません。主婦の方は普通、毎日、節約の連続で、少しでもムダ使いを少なくしようと努力されています。でも貨幣経済の元では、「ムダを少なくする」というのは「多のものを買う」ということを意味していますから、家庭としては良いのですが、環境を良くするということにはつながらないのです。
「個人が節約すると、消費が増える」という奇妙な現象は「合成の誤謬」と言う難しい言葉を使うことができます。貨幣経済のもとでは、一人の人がやる目的が、全体としては逆の方向になることが多く、それは経済学ではよく見られることでもあります。
では、なぜ政府や官僚、そして識者と呼ばれる人が「環境を良くするために節約に心がけましょう」と言うのでしょうか? 私たちの人生には「節約」とか「質素な生活」というのはあり得ないのでしょうか?
(平成24年8月6日)