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現代の日本では「節約」はオールマイティーでどんな時でも「万能のお札」のように良いこととされているけれども、「節約」は良いことばかりではなく、「両刃の剣」でもあります。

社会や人生には「ジッとしていること」が良いときと、「積極的に攻勢にでないと負けてしまう」ことがあります。生物というのは競争をし、進化を遂げ、一時すら止まっていることはないからです。「生物の業」と言ってもよいので、自然らしい、人間らしいというのはむしろ競争の方がしっくりします。

「ジッとしていても良い環境や時代」には「節約」することが良い場合もあり、たとえば日本でも江戸時代のように鎖国をして外国と関係を絶ち(競争せず)、生産力が低い場合がそれに当たります。それでも江戸時代は飢饉、子供の間引き、短命、辛い毎日など決して今、考えるような良い生活では無かったのです。

ところで、いつの時代でも家庭は競争もなければ生産もする場ではないので、「家庭では贅沢より、節約したほうが幸福になる可能性が高くなる」ということは言えます。「ホッとできる場所」の家庭は競争とは無縁です。

家庭は「愛する家族、長くなじんだ愛用品」に囲まれて穏やかに過ごす空間です。

でも、「節約」を社会に持ち込むと、一般的にはその国は滅びてしまいます。「節約」は「活動量を下げる」ことを意味しますから、それだけ競争力が低下するからです。最近では節電がはやり言葉で、「クーラーの設定温度を高めにする」というのが良いことにように言われますが、もしそれで能率が下がる場合には適切なことではありません。

また「ムダ」と「節約」は違います。「ムダ」というのは同じ活動量で物やエネルギーを減らせることであり、「節約」は活動量を減らす結果になることが多いからです。

ここまで、「節約と人生の幸福、日本の発展」に焦点を当ててきましたが、もう少し深く考えてみましょう。

日本国憲法には基本的人権が明記され、日本国民は一人一人がその人の人生観、思想、信条によって自由に生きることができると定められています。私はこの基本的人権の考え方を支持しています。

「太く短く生きる」、「少しぐらい苦労しても好きなことをして人生を送りたい」、「自分のお金の範囲で法律に触れなければ贅沢もしたい」というようなことは私にはすべて健全な考え方と感じます。

世の中には、真面目一徹で模範的な人もおられますが、少し抜けているけれど人柄が良いとか、変人だけれど何かに夢中という人もいて良いのではないかと思うからです。「いても良い」というよりも、そんなことを考えること自体が傲慢で、いろいろな人の人生を自分の価値判断で「良い悪い」と決めること自体が傲慢なように感じられるからです。

今から20年ほど前、主として官僚などが中心となって「日本国民は節約が好きだから、それを狙って金儲けをしよう」という計画が芽生え、「ゴミゼロ」、「CO2削減」、「節電」などと言う世界でも希で、科学的原理に反する運動が展開され、ずいぶん多くの税金を取られました。

そして社会に吹き荒れた「節約ブーム」のために、経済成長は低迷し、中小企業は四苦八苦の状態になり、道路の改善が遅くなって小学生が交通事故にあい、山野の対策も遅れて豪雨禍に苦しんでいます。まさに「積極的にでて発展していかなければならない」というところまで制限が行き渡っている状態です。

夏のクーラーにしても、「つける方がイヤだ」という方が多いのは当然です。その人もその人なりの「信条」や「体調」があるからです。でも、それはあくまで個人の思想信条の自由であり、他人に自分が良いと思うことを押しつけるような社会はそのうち、自分自身がイヤなことを押しつけられる事にもなります。

ちょうど良いタイミングなので、「家庭では節約、社会は積極的に」という方針に切り替えれば、日本人の活力と個人の強さは格別なので、自由に個人がその想像力を発揮すれが明るい日本ができると思います。

「節電」、「ゴミ減量」、「CO2削減」などを日本社会全体で強制するようなことは止めて、全体としては日本社会を発展させ、お金の流通を増やして少し生活を楽にし、会社の収益を上げて前向きに赤字国債や年金問題などを解決する方が良いと考えています。

 

(平成24721日)