日本のエネルギー政策の公聴会で中部電力課長が「福島では一人の死者も出ない(何を騒いでいるのだ)」と公式に発言し、さらに記者のインタビューに対して「原発を止めたら日本がダメになる」と答えていたのを聞いて、久しぶりに頭に血が上ったのですが、一晩、眠れぬ夜を過ごしてみると、この発言の全貌がわかったような気がします.
私が今、到達している結論は「やはり、日本の指導層は民主主義は間違っていると信じている」と言うことです。これまでも著作物、発言などを読んだり聞いたりして、どうも日本の指導層が民主主義を良いものと思っていないような気がしていましたが、この発言はまさにそのような背景を持ったものです。
日本の原子力は次のようなステップですすんできました。
1)日本の産業と軍事(核武装)を発展させるためには原子力を進めなければならない、
2)しかし原爆を落とされた日本では原子力を進めるのは国民の抵抗が強い、
3)そこで国民に2つのウソをつく必要がある、
4)一つは原子力を平和利用に限ると約束する、
5)もう一つは原発が安全だと約束する、
6)並行して核武装のために遠心分離器によるウラン濃縮と核廃棄物が2.6倍になる再処理をして原爆用のプルトニウムを得る、
7)法規では国際基準に合わせて「1年1ミリ」と決めておくが、事故が起これば1年100ミリまで大丈夫と言う、
8)現実に福島原発の事故が起こってみると、当初の作戦通り、日本の指導者は「1年1ミリの法規を守るのはけしからん!」と豹変してくれた.
この中で「1年1ミリ」は国際基準なので、日本だけが1年100ミリでは食材ばかりではなく、工業製品の輸出もできません.そこは曖昧になっていたものと思います.いわゆるダブルスタンダードで、日本国民と国際的には「1年1ミリ」と言っておいて、心の中は「1年100ミリまで良い」ということです。
この場合の「良い」というのは、「健康に問題はない」というのではなく、「原子力のためにある程度の犠牲を出しても良い」という意味です.日本は集団性の強い民族(文化かも知れない)で「全体のためには個人を犠牲にして良い」という傾向があります。
先の戦争で日本軍が強く、特攻隊が維持できたのは「全体のために我が身を犠牲にする」ということが国民の合意でもあったのです。「我と我が身を犠牲にして日本のために尽くした」という戦記を読むと、日本人の血が騒ぎ、つい感激してしまうのです。
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中部電力課長の発言は、言葉を換えれば「福島原発の事故なんて問題ではない.死者は出ないのだから」ということになる。つまり、逃げたり、除染したり、農作物を捨てたりすること自体が無意味で、人も死んでいないし、これからも死なないから、騒ぐなということだ。
そして「原発は日本にとって必要だ。国を滅ぼすつもりか」と言っているので、もともと原発で福島ぐらいの事故は事故とは言えない。だから福島規模の事故は「危険」とは言えないというのが電力会社の公式見解だ。
たしかに、1年100ミリまで大丈夫といっている人もいるし、1年1ミリの法規がなく、電力会社が今まで国民に説明してきたことも無かったことにすると、理屈は通っている.
仙台と名古屋で2回の公聴会があり、2回とも電力がでて所属を名乗り、仙台では「会社の見解」ということで意見陳述を行っている。つまり、次のことは現在の日本の電力会社の「公式見解」であると考えられる.
1)福島原発の事故は「事故と呼ぶほどのものではない」、
2)従って、福島原発は「安全な原発」だった、
3)従って、日本の他の原発も「安全」である、
4)福島原発の事故を「事故」と呼ぶ方がおかしい、
5)電力が国家であり法であるので法を無視するのは当然だ。
6)従って原発の再開は当たり前のことである。
このことが電力の公式見解であるとすると、これまでの東電、関電の威張った対応や、マスコミのへりくだった電力に対する姿勢を理解する事ができる。
でも、このような電力会社は日本の電力会社としては認められない。従って、九電力のうち東北電力、中部電力は直ちに解散して、新しい会社に移行すべきである.このような暴力団的、反社会的団体を残しておくことはできない。
他の電力会社は急いで見解を発表して、自ら解散するかどうかを決めるべきである.政府の増税に続く、あまりにも大きな反社会活動である.
(平成24年7月17日)