ある人が自動車を買い換えようと思ってトヨタの販売店に行き、「そろそろ古くなったので、新しい車が欲しいのですが」と言うと、セールスマンの反応として論理的には次の二つがあります。
1)「最近のクラウンはとても良くなりました。是非、お買い求めください」
2)「トヨタの車は長く乗れますから、もう少し乗られたらいかがでしょうか? 人間にとって我慢も大切です。それにトヨタの生産計画が少し遅れていまして、トヨタとしてはお買い求めいただかない方が良いのです。」
この2つのセールスマンの反応を聞いて、2)の方で納得する人はいるでしょうか? 普通の人はセールスマンが「買わない方がよい。生産計画が遅れている」などと言ったら、「なんて自分勝手な会社だ!どんな車に乗りたいかは乗る方が決めるのだ。我慢も大切だと! お節介も甚だしい! こんな会社から二度と買うか!」と腹を立てたり、気持ちが悪い思いをするでしょう。
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でも、電力会社は2)のようなことを白昼堂々と言っています。それを政府、自治体、マスコミが後押しをしているのですから、実に奇妙です。
日本では電力を供給する会社は「サービス業」に分類されています。この分類はおそらく「目に見える物」を供給するのが製造業(第二次産業)で、「目に見えないこと」をサービス業(第三次産業)という感覚があったからでしょう。また、経済学的にはクラークの定義(無形材)などがありますが、やや定義は曖昧です。
おそらく、普通の人にとって電気は見えないものと感じるのでしょうが、科学者の私にとっては電子の運動そのものですから、ハッキリとした製造業です。製造工程としても、石炭を溶鉱炉で焚けば鉄ができ、石炭を発電所で焚けば電気ができるのですから、まったく同じです。
しかし一般の人は、「鉄と電気」というとかなり違うように感じます。この間隙を突き、マスコミを見方につければ(もう一つ・・・日本なんかどうなっても良い。自分だけ良ければ良いと踏ん切ることができれば)電気というものを特別なものにすることができるのです。
ところで、エネルギーというのはこの世のあらゆるところで消費されます。自動車を作るときには、鉄鉱石を地下から掘り出すエネルギー、外国から日本に運ぶエネルギー、溶鉱炉で使う膨大なエネルギー(鉄鋼業はエネルギー多消費型の素材産業と呼ばれます)、圧延のエネルギー、鋳造、鍛造のエネルギー、石油を使ってプラスチックやガラスを作るエネルギーなどエネルギーの塊です。
だから、「新車を買う」というのと「電気を使う」というのは「エネルギー消費」という点では、使うお金に比例してほぼ同じ事をするということです。それでもなぜ「自動車を買うのは買う本人の意思」であり、「自動車会社は競争してできるだけ買ってもらうように努力する」ことによって社会が正常になるのに、電気の場合は逆なのでしょうか?
それは日本の電力会社が戦後になって地域独占になり「少なく売った方が労力はいらないし、もうけは変わらない」という奇妙な会社になったからです。
アメリカがほぼ日本の2倍の国なのに、電力生産量は8億キロワット、それに対して日本は1.8億キロワットと4分の1にも達しません。電気は日本人の活動の源ですから、全体的に見ると、電力関係のわずかな人の利権のために日本全体の活動力が低下しているということがわかります。
このような錯覚が生まれるには利権に絡む現代日本の闇があるからですが、でも、こんな大きな間違いをしていては日本がダメになるのは間違いありません。
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(平成24年7月10日)