小学校のいじめ、自殺問題があとをたちません。教育はそれが行われる社会に強い影響を受けますから、社会が活発なときには教育も活気のあるものになり、社会が沈滞するとさまざまな問題が起きます。

とくに現在の日本のように首相をはじめとして、マスコミまで「ウソをつく」、「ウソをつかない人を批判する」というような極端な状態の中で教育だけを正常に行うのは至難の業です。

たとえば「約束を守りましょう」と教えようとすると「首相だって約束を守らないじゃないか」と言われますし、「しっかり勉強して偉くなりましょう」と言っても、「偉い人」の具体的な例を挙げることも難しいという状態です。それに「ウソをつかなかったから、事態がこじれたではないか!」マスコミがたたくことも頻繁に行われます。

その中でも原発事故からズッと驚くことが多かった日本の教育界で、子供の自殺を巡った学校と教育委員会のウソの連発は目を覆うばかりです。今日(2012711日)の朝のニュースでは大津市教育委員会、大津市長のミスを盛んに報道していましたが、教育委員会が自殺についての「アンケートはやったけれど、記載されていたことは見ていなかった」という発表には「まだウソを言う習慣が抜けていないな」と思った人が多かったでしょう。

アンケートの内容の中でも自殺にもっとも関係の深い記述が複数あったのですから、見落とすはずもなくハッキリとしたウソでしょう。もしウソではなかったら、こんな非常識なことがどうして起こったかを説明しないと「ウソ」と断定して良いとおもいます。

このブログは「常識で判断できることは、発表などがそれと違っても、その理由を説明しなければ常識で判断したことを正しいとする」という立場をとっています。今日のようにウソを平気で言う「偉い人」がいる場合の国民の自衛手段として認められるという見解です。

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いじめや不祥事の真なる原因は社会の不正、よどみにあります。明るく前向きで、正直な社会にはいじめなどは発生しにくくなるからです。そしてその中心に「取り繕うウソ」があります。

なぜ、教育界はウソをつくのか?それを少し考えてみます。教育現場では常に「正直であれ、約束を守れ」と教えているのですから、その先生方が自らウソをつくことは考えられませんが、それが現実です。

私が本当の意味でウソをつかないようになったのは、40才ぐらいです。それまでも「大きなウソ」というのはつきませんでしたが、「こう言っておけば自分に得になる」とか、「ここは何とかギリギリでしのごう」ともがいたものです。

当時、「ウソをつく」というより、「本当のことをそのまま言う」ということに余り価値を認めていなかった感じがします。突き詰めて言うと「事実を言うことより、物事がうまくいった方が良い」という感じです。今回の野田政権の増税のように「国民との約束を守る」というより「今、財務省の言うことを聞いておいた方が良い」というような判断と同じようなものでした。

このようになるのは、1)誠意ある人生を送ろうと思っていなかった、2)その場が良ければ長期的なことは軽く見ていた、3)本当のことを話したらどうなるか不安だった、の3つの理由があったように思います。

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ところが、だんだんウソを言わない生活になり、今では何でもそのまま言います。そのために、1)自分のことはそのまま言う、2)社会の事もそのまま伝える、3)自分以外の個人(公的な人は別)のことはできるだけ「その人」とわからないように言う、ということを守っています。

とくに、1)相手が回復できないこと(性別、育ち、所属、職業、生活の場所、家族、年齢など)は言わない、2)相手が反撃できなければ言わない、という2つを厳密に守っています。

さて、そのような制限の中で「そのまま言う」という生活をしてみると実に快適でした。なにしろ「前はどう言っただろうか?」とか、「どういうのが有利だろうか?」、「これを言ったら酷い目に遭うのではないか?」などはすべて無く、心のままに言うので快適です。

そして、そんな生活はさらに私に宝物をくれました。それは「いつも心のままに言っても人に好意を持たれるためには、心を綺麗にしておかなければならない」ということを知ったからです。

それからというもの、「自分の考えも正しいかも知れないが、自分と正反対の考えも、同じく正しい」という私の信念や、「自分が考えていることは間違っていることが多い」ということにも気がつきました。

このような経験の中で「本当のことをそのまま言ったらどうなるのだろうか?」という恐怖はすっかりなくなり、人から「武田さんは、あまりにそのまま言う」と言われるようになりました。

このような生活をしていると、「ありのまま」でも「人の信頼を得る」という生活ができるようになり、その結果、ますます「ウソをつく必要がない」という自分になったのです。

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今回の自殺の問題で、私が教育委員会にいましたら、アンケートも含めてそのまま発表したでしょう。そして、それによって咎を受けるならそれはそれで、受け入れたと思います.その方が長い人生では自分の命を大切にすることになると、テレビに映っていたご年配の教育委員の先生にお話をしたかったと思いました。

「教育関係者、先生方、ウソをつかないでそのまま言ってもそれほど怖いことはありません。自分がしたことは仕方が無いので、それを受け入れる方が悔やみもなくなります。」 政治家は余りに周囲がウソで固まっているので、傷が深いのですが、せめて教育界からウソのない社会を作ってもらいたいものです。

ただ、この問題は「学校教育と保護者の関与」という面で、「学校と親が一緒になって教育をする」という視点でも考える必要があるでしょう。

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(平成24711日)