ロミオとジュリエットは純愛であるが、竹取物語はややふざけた男女の恋愛です。そうじてヨーロッパの恋愛と日本のそれとを比較すると、ヨーロッパは愛を純粋に高めたものと、やや性的衝動に重きを置いたものが見られます。

愛と性を描写した文学作品はあまりにも数が多いので、何を取り上げたら良いのかわからないぐらいですが、純愛では「椿姫」、やや性的衝動という意味では「ボヴァリー夫人」が思い起こされます。私がこのような小説や実際のヨーロッパでの体験などから考えますと、ヨーロッパの恋愛は、1)生物的衝動を人間の頭脳で非現実的なものに昇華したもの、2)それでも性的欲求の強い白人の性質から生まれたもの、の2つと思います。

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もともと生物的衝動の性には「愛や恋」などがあるとは考えられません.単に「優れた子孫を作る」ための本能の動きです。一部の哺乳動物は頭脳活動が見られますが、ほとんどの生物は脳からの指令では動かないからです.

つまり簡単に言うと、「愛」とか「恋」というのは、動物的衝動を幻想によって人間が頭脳で作り上げたもので、「美しいもの」でも「あこがれるもの」でもなく、どちらかというと「人前では露骨に示すのが恥ずかしい感情の動き」であると考えられます。

このように言うと、強い反撃が来ると思います。なにしろ「純愛」というように「男女の愛」が「恥ずかしいこと」というと「人情がわからない」と言うことになるからです。

竹取物語の話は、還元主義で愛を作り上げたヨーロッパと違って、日本人は俯瞰的に愛を観察すると、「どうもいい加減なものらしい」ということになったからと思います。

つまり、求婚した5人の貴族がかぐや姫に恋したのもいい加減なアプローチですし、まして「塀によじ登ってチラと見えたかぐや姫に一目惚れ」などというものに人間の知性など感じられないからです。

人間同士の崇高な愛なら、男女が出会ってからしばらく、人生を語り、生物学的な性欲を語り、誕生してくる子供を思い、考えが一致してから恋愛になるはずだからです。

「一目惚れ」とか「美人だから」などということ自体、人間の知性を感じません。これは私の独自の考えではなく、日本では昔からそのように考えられ、男女の愛を「人間的ではない、軽いもの」としていました。

日本のお見合い結婚、それも親が決めるお見合い結婚では、初めて会う男女がそのまま結婚しました。結婚式で初めて会う男女というのも多かったのです。これは、もともと「男女」や「家庭」というものが、生殖と育児であることをわきまえて、それに調和した制度を作ったとも言えるのです.

竹取物語はその一つの例を示していますし、ヨーロッパのドンキホテも「幻想のとらわれた騎士」を持ち出して、およそ「理想の貴婦人」ではない女性をしたてあげています。古今東西、「男女関係はそれほど崇高なものではなく、所詮、たまたま一緒になったようなものだ」という考えだったように思います。

つまり、最初がいい加減でだんだん本物になる「日本型育てる愛」と、最初から興奮してそれを何とか維持しようとする「継続努力型愛」というヨーロッパ型があると思われるのです.「継続努力型」ですと、最初の異常な興奮を継続しなければならず、その原動力は無いのですから、毎日、キスが必要で「愛している」と言い続けなければならないという悲惨な状態になります.

それと全く違う日本の男女の愛は、1年から3年までが男女の恋愛、そして3年以後は夫婦(家族)の愛に変化します。「3年目の浮気」とはよく言ったもので、この時期に男女の恋愛から家族の愛に変わらない人は浮気、不倫、離婚といった暗い人生に突入します.

日本の「育てる愛」がどんなものか、それを次回に書きたいと思います.ヨーロッパ風の純愛や継続努力型愛で苦しんでいる人には参考になるかも知れません.

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(平成24623日)