ネットなどを見ているとやたらと批判的、挑戦的、けんかっ早い人が多いように思えます。相手の顔が見えないことで普通なら遠慮するところなのに、そのままストレートに感情をぶつけることが出来るからかも知れません。

 

また何か不満があって、そのはけ口にネットを使っているということもあるでしょうし、あるいは人を脅してそれを商売にするというのもこの世のことですからあると思います。

 

ところで、私も江戸っ子の気質が残っていて、かつてけんかっ早い方だったのですが、ある時から「心の底から喧嘩にならない」ようになりました。そのもっとも大きな理由は「自分は自分の意見が正しいと思っているけれど、相手は相手が正しいと思っていることを正しいとしている。相互に違うだけ」ということがわかったからです。

 

人は「自分が正しい」と思っていることを「正しい」と錯覚しています。本当はそれは「誰から見ても正しい」のではなく「自分から見ると正しい」と言うことに過ぎません。その時の「正しい」という根拠は、「自分の生い立ち、自分の経験、自分の頭脳構造、自分の利害、自分の将来、自分の家族のため、自分の国日本のため」などどちらかというと自分中心です。

 

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私の人生の一つの目標は「ありのままの自分」、「ありのままの人生」でした。考えてみると「こうなりたい」と思うことは大切ですが、それでも自分は自分で「日本人である」ということなど変えようもありません。少し努力をするにしてもできる範囲は大したことはなく、学者ならせいぜいノーベル賞を取るぐらいです。

 

ノーベル賞を取ることはすばらしいことで、それに至る努力や才能は尊敬すべきものですが、「たかがノーベル賞、されどノーベル賞」という域をでるものではありません。一人の人間の「そのままの価値」はそれを上回ります。

 

「ありのままの自分で、この世を生きていけないか? ウソをつかず、いつも誠意をもって人に接し、額に汗しただけの範囲で満足し、時に病気をしたら仕方ないと思う」・・・そんな自分が32歳からの自分の目標でした。

 

それまでは「少しでも得をしよう」と思って、いいわけをしたり、人を出し抜いたりしなかったわけではありません。でも冷静に考えてみるとどうも結局、その方が損をしていることにも気がついたのです。

 

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「人の意見は自分と違っていても「間違っている」とは思わない」、「ありのままの自分で良い。それで損をしてもそれは元々の自分の力だ」と思えるようになってからの自分は、心の底から腹の立つこともなく、テレビでアガることもなく、楽しい人生を送ることができるようになりました。

 

もちろん、子どもを被曝させるような政策には心底から腹が立つのですが、「どうしてそんなことを考えるのだろうか? 歳を取っても自分のことがかわいいのだろうか? もしかすると自分が間違っているのではないか?」と考えますから、少し余裕が出ます。

 

病気になると落胆はしますが、「気をつけているなら病気になるのは運命だし、気をつけていなければ自分の責任だから」と思うことができるようにもなりました。

 

最近、「普通の人なら、「これを言ったらどうだろうか? あれは・・・」と考えるのに、武田先生はいつもそのまま言って、それで普通にやっているのだからビックリします」と言われてこの文章を書く気になりました。確かに私の最初のうちは「ありのままの自分」というものに不安を感じていましたが、今では「正直で誠意があれば、周りは何とかしてくれる」と思っています。

 

その直接的なきっかけは原子力でした。原子力基本法で「自主、民主、公開」が原則になっていて、なんでもそのまま発表し、発言してみると、一部を隠していたときよりスムースに行くではありませんか! 一部を隠しているとそれが引っかかって考えが前に進まないのですが、隠しごとがないとスッキリして見通しがとてもよくなり、人の気がつかないところまで見えてかえって評価されるようになったのです。

 

 

 

(平成24531日)

 

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