名古屋大学の教授が浜岡原発の審査の直前に、中部電力などから研究費を約1100万円もらっていたことが報道されました。ご本人は審査に影響を与えていないと言われていますが、金品をもらっても影響がないなら世の中から贈賄罪がなくなるはずです。

 

この事件はどんな背景を持っているのでしょうか?

 

1961年から始まった年金は、1)積み立て式にするとインフレでそのうち年金の価値がなくなる、2)その時には賦課方式(若い人が老人を養う)に変える、3)それも破綻するから税金で補う、4)それまでは厚労省の天下りや国の赤字事業に年金を使い切ってしまう・・・という悪辣な制度でした。

 

それと同じように1990年代に吹き荒れた「国立大学の独立法人化」と「役に立つ研究」は大学をすっかり拝金主義に変え、見るも無惨な状態になっています。

 

名古屋大学もかつては木訥ではあるが、学問が好きな尊敬できる先生方と研究室でした。その頃、大学内で若干の飲酒もあったし、夜な夜な錦(名古屋の「にしき」、つまり飲み屋街)にでむく教授もおられましたが、学問的な雰囲気の中にありました(機会があったら、名古屋大学が実に誠実な大学だったことを書きたいと思います)。

 

でも、今はすっかり変わってしまいました。何しろ文科省にゴマをすらなければお金が来ないので、学生の教育や研究もままならなくなったのです。たとえば工学部で学生に実験をさせて良い教育をするためにはどうしても一人の学生に1100万円ぐらいは要ります。もし「世界一流」の研究なら300万ぐらいはかかります。

 

教授がそのお金を獲得するには、大学を通じて文科省にゴマをするか、企業からもらうかしかありません。もちろん、教授が営利会社を作れば別ですが、学生は労働者ではないので、営利を目的とした研究をすることはできません。

 

かくして、教授は、1)学問を志して(お金をもらえず)、その結果として学生の教育をおろそかにするか、2)学問に反してお金儲けに走り、学生が教育を受けられる環境を作るか、の2つを選択しなければならない状態になります。それが「大学の独立法人化」と「役に立つ研究」なのです。

 

もし学問の神様がおられればどの先生の研究が「役に立つ研究」かわかりますが、神様はおられないので、結局、文科省(御用学者を含む)が決めることになります。でもこれは奇妙なのです。もし人間が「役に立つ研究」がわかれば、その研究にお金を出すより、それを自分で研究した方が良いからです。

 

ノーベル賞を取れるような研究が申請され、それを審査した東大の先生はどう思うでしょうか? その研究でノーベル賞を採れると思ったら、その申請(研究費の申請)を却下し、自分で密かに研究をスタートするでしょう。先にスタートしてしまって、翌年、その研究費を認めれば自分が先にやったことになるからです。

 

普通はノーベル賞級の研究は、新しい内容ですから、あまり理解されることもなく、また成功率も低いのです。成功率の低い研究はお役人から言えば「税金の無駄使い」になります。だから、「役に立つ研究」にお金がでるようになってから、1)温暖化研究など国の方針に従った研究、2)成功確率の高い平凡な研究、3)役人が理解できる普通の研究、などでなければ研究費が取れなくなってしまったのです。

 

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それでもお金は足りません。また、教授の待遇を「獲得した研究資金の額で決める」ということも多く行われています。まるでサッカーの選手のようで「あの先生は稼いでいるから」ということで尊敬されるという、大学というところでは考えられないばからしい状態になっています。

 

学問の魂を曲げて研究するのがイヤな先生は、教授ならまだ良いけれど、准教授なら業績を上げられないから教授になれない。結局、この制度は「お金で地位を買う」ことをせざるを得ないので、結果的に「お金をもらえれば魂を売るという教授」を作り出してしまうことになった。

 

情報がうまく伝わっていなかったこともあるが、このような大学が良い、先生が良いとしたのは実は日本国民だった。「お金の大学」になって以来、学問的業績のない(たとえば論文がない)教授が官庁やマスコミから大量に大学に再就職するようになった。少し名前が売れてくると、そのうち「何とか大学の教授」になっているのは、これが理由だ。

 

教授の定員を増やすのは見かけ上、教育をよくするので、文科省も文句を言わないが、大学側の意図は「役人やマスコミの人を一人、雇用してもそれ以上の利益がえられる」という計算が働く。惨めになったものだ。

 

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福島原発事故以来、名古屋大学の原子力関係の先生が電力会社から研究費をもらい、研究費をもらった会社の原発の安全審査をしたという報道が続いている。簡単に言うと、賄賂と言われるものとほぼ同類だが、「お金をもらって審査に手心を加える」という行為に対して「公職選挙法」のような「公的審査法」でもできないと、「学問に忠誠を誓う」ことができなくなった大学教授には必要かも知れない。

 

でも、法律が必要とは情けない。名古屋大学の教授にしても、中部電力の幹部にしても、社会的には指導的立場の立派な人たちだ。その人たちが賄賂まがいのお金のやりとりをして、国民の命のかかった原発の審査をしているのだから、どうやって若い人の教育をすれば良いのだろう?

 

やはり教育は人を育てるところだから、大学の制度を大きく変えなければならない。そして官庁やマスコミから大学に移る場合は、その人の学問業績を一般に公開しなければならないだろう。マスコミももっと積極的に「マスコミから大学へ移動した人」の数が「役に立つ研究」などが始まる時期から急激に増加していることを報道しなければならない。マスコミ自身もその報道魂が試させる時だ。

 

 

 

(平成24515日)

 

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