私は科学、それも自然科学の実験系だったからかも知れませんが、「自分の考えていることは間違っている」という確信があります。これは私ばかりではなく、自然科学に長く携わってきた学者の多くは同じだと思います。

 

学問はシッカリ積み上げた学問的体系に基づいて考えたり行動したりするものですし、学問的体型はこれまでの知識と論理で「専門家なら誰でも同じ結論に達する」程度まで進むのですから、それが間違っていると言うことはないようですが、それでも人間の知恵は浅はかで修正、訂正、新しいことの発見があるのです。

 

つまり、ある意味で、今の学問体系が間違っているから研究が続けられると言っても良いのです。私たち科学者は常に目の前にある「事実」は「本当の事実」では無いと思います。それは私たちが見るもの聞くものはそれらそのものではなく、自分の目や耳というものを使って観測しているからです。

 

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民主主義、多様な社会、そしてダダ漏れ(秘密なし)はとても良いもので、自分と違う考えを聞くことが出来、それによって自分の考えを修正したり、間違いに気がついたりします。「おまえが間違っている」と言えるのは神様ぐらいなもので、人間なら「自分が正しいか、相手が正しいのか」はまったくわからないはずだからです。

 

ただ、それが「不誠実」に及ぶと私もやや感情的になることがあります。相手が「ウソをついても良い。不誠実で良い」と思っているとき、「ウソをついても良い」というのが正しいかも知れないので、それも認めなければならないのですが、どうもお互いにウソをついていたら話し合う意味がないような気もするからです。

 

確かに、「この世はウソのつきあい」と思っている人もいますし、私は「ウソのない社会の方が気楽で発展する」と考えていますが、これもどちらが正しいかわかりません。日本に経典や戒律のある宗教が基礎にあったら、このような「基礎の基礎」についてはなかなか人間では決められないところがあります。

 

かつての日本はこのような基盤となる倫理を「単一民族、周りは海」という環境の中で暗黙の合意でやってきましたが、社会が複雑になり、いわゆるグローバリゼーションが進み、必ずしも暗黙の合意ではすまなくなってきたと感じます。また小学校ぐらいの時に「ウソをついたらダメ」と繰り返し教えられると、何となく後ろめたい感じになるのですが、今の教育のように「自分だけ良ければ良い」というのが基本になっていると、なかなか嘘つき社会をなくすのは難しいでしょう。

 

せっかく、自由な社会、言論の自由を手に入れても、ネット社会に見られるような激しい個人攻撃や、マスコミで見られる「禁句や干す」というのが横行しているのを見ると、民主主義、表現の自由、価値観の多様化、家庭や地域の崩壊の中で、私たちが絶対的な権威が無い状態で合意を形成できるか、深く考える時が来たのでしょう。

 

私は時に二重人格と呼ばれることがあります。私の中には「自分が正しいと思う」ことがあり、相手の考えを聞くとそれが自分の考えと正反対でも「なるほど」と納得します。この「納得」は「同意」ではなく、「相手の言うことがわかった」と言うことなのですが、納得すると「先生は先ほど、違うことを言ったじゃないですか」と言われます。

 

相手の考えを納得するというのは、相手の意見を真の意味で理解することで、それは自分の考えを変えたと言うことと同じではないからです。世の中の喧嘩の多くは、相手と本当に考えが違うのではなく、相手の考えを理解していないところにあるように思います。この誤解の多くは、「自分に有利なように巧みにウソをつく」という人間の本姓に根ざしているのでやっかいです。

 

もし、この世が「ダダ漏れ(なんでもオープン)、ウソなし」なら、簡単で明るいように思いますが、それでは人間の集団とは言えないのかも知れません。でも、これほどの閉塞感があり、子供たちも未来に希望を持てず、政府もなにか陰でこそこそやっているような感じですから、「ダダ漏れ、ウソなし」ぐらいの社会を作った方が日本は良くなると思います。

 

 

 

(平成2451日)

 

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