原発推進派は何が何でも原発を再開しようとしているように見えますし、反対派は絶対に再開を防ごうとしています。なぜ、「安全でなければダメ」というのはなのに、これほど対立するのでしょうか。
原発推進派: もう一度、事故が起こったら原発は最終的にダメになるから、絶対に安全でなければならない。なぜなら原子力を続けたいから。
原発反対派: もう一度、事故が起こったら原発は最終的にダメになる。絶対に安全でなければならない。もう原子力はやりたくない。

 

どこが違うのでしょうか? 途中までは完全に一緒なのに最初から対立しています。つまり、どちらも原発が安全でなければならないという信念には変わりはありません。そうなると、原発推進派も反対派も再開はイヤなはずです。では、誰が原発を再開しようとしているのでしょうか? 実は、今、原発を再開したいと思っているのは、驚くべきことに原発推進派(原子力の人たち)ではなく、原発には興味がなくお金に興味のある人たちのように感じます。

 

お金に興味のある人たち: 原発が安全かどうかを議論していたら、原発を再開できない。安全かどうかを議論せずに再開すればお金は得られる。事故が起こったらその時はその時だ。原発を止めれば良い、ということですから原子力に信念がない人です。

 

今、議論がややこしくなっているのは、あたかも原発推進派と原発反対派が争っているようにマスコミが見せているからかも知れません。本当の対立構造は、「原発に興味ある人たち」と「原発よりお金に興味ある人」の対立とも思います。また「子供の健康が大切な人」と「自分だけがよければよい」という人の争いとも言えます。

 

すでに原子力委員会が2度にわたって「原発を止めた方が電気代が安くなる」という報告を出していますから(日本の原子力委員会です)、産業界が「原発の電気が欲しい」と言うはずもありません。また思想的に右の論客の多くの人が「原発を止めると日本が弱くなる」というのも原爆を保有したいということ以外は、根拠を持っていません。もし思想的に右の人が原爆を持った方が良いというお考えなら素直にそれを訴えた方が良いと思います。

 

また、ヨーロッパが太陽光発電、風力発電、バイオマスなどをやったおかげで電気代が高くなり、経済的に大きな圧迫を受けていることはよく知られています。また1988年から始まった地球温暖化騒動もその多くが間違いであったことも指摘され始めています。

 

「お金が欲しく、自分だけが良ければ良い」という人の特徴は「原発の電気は欲しいけれど、核廃棄物は引き取らない」というものです。原発を再開したい人はその敷地に原発からもらった電気に相当する核廃棄物を引き取る義務を設けるべきと思います。そうするとその人たちは「自分だけ良ければ良い」ということですから、原発再開に反対するでしょう。

 

ところで、原発の事故が起こった後も、東京の人たちで原発再開を支持している人が多いのはどういうことでしょうか? 俺たちはお金を持っているので、危ない原発は貧乏な新潟県と福島県、核廃棄物の中間処理はこれも貧乏な青森県にということなのに、それを「絆」と言っているのでしょうか? すでに、核廃棄物は発電所を中心にすでに12万本が貯まっているのですが、それは「子供たち、孫たち」に任せるという感じです。

 

原発の電気は自分で作り(多摩川立地)、そこから出る汚いものは自分で処理する(千代田区に核廃棄物貯蔵所)という前提で議論をしなければならないでしょう。そうすれば常識的な答え、つまり「原発はしばらく休止し、今年の夏はなんとか我慢して、石炭や天然ガス火力発電所を緊急に作る」ということになると思います。

 

 

 

(平成24430日)

 

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