とても重要なことがわかったような気がします。そして、あるいは私の長年の苦闘は意味が無かったのかも知れません。リサイクル、ダイオキシン、温暖化、そして国債や年金問題・・・こんなに簡単なことをなぜ知識も頭の回転も良い評論家が判らないのだろうか?と訝った(いぶかった)ものです。
ところが最近、あるテレビに出ているときに、その理由がよく判ったのです。テレビに出ているときには気が張っていますから、集中力もあり、普段気がつかないことを気がつくものですが、これもその一つでした。
明らかに事実がはっきりわかっているのに、目の前の評論家がそれを否定するのです。私は思わず声を荒げました。「これほど事実がはっきりしているのに、否定するのですか?」というわけです.その人はそれでも頑(ガン)として否定しました。その時、私ははっきりと判ったのです。その人の目は「わかっている」と言っていたからです。
私は「事実を事実として認める」のは誰でも否定できないと思ったのですが、その評論家は「事実より、空気(みんながそう思っていること)が事実である」という確信があるのです。みんなが「地球は平らである」と言えば平らであり、事実は地球が丸くてもそんなことは関係がないという考え方です.
「みんながそう思っていることが事実」というのは昔からあることです。たとえば中世のヨーロッパでは何か悪いことが起こると「魔女のせい」と言うことで、みんなで相談して普通のおばさんを魔女にして火あぶりにするということが長く行われてきました。これなども「空気を事実とする」という典型的なものです。
それの少し変形バージョンが「政府が言ったことをそのまま信じてはいけないのですか?」という問いです.2012年3月にある地方の人が質問したのにはビックリしました。なにしろ民主党が政権を取った選挙以来、今の政権が何回ウソをついたか数え切れないぐらいなのに、その事実を認めずに「政府は信用できるものである」という前提を崩さないのですから、日本人は本来、空気の中に生きているのではないかと思ったりしました。
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「事実を事実とするのではなく、空気を事実とする」ということと「東京の評論家や官僚、東大教授」というのが密接に関係していることも納得できます。私は実験系の科学者でしたし、農業、建築業、工業、学校、医師・・・などは「事実は事実」としないと失敗します。目の前にある事実、科学的事実に基づかないと、すぐダメになるからです。
ところが、東京の人は食糧自給率1%、原発の電気は使うけれど核廃棄物もイヤだという架空の世界に住んでいます。だから、現実にCO2で温暖化してようとしていなくても、原発を動かせば廃棄物がでることも知っていますが、そんなことは関係なく、みんなが「CO2で温暖化している」、「核廃棄物はないも同然」と言えば、それを事実にしてもまったく困らないのです。
東京の人は力(政治、学問(東大)、報道(NHK))を持ち、お金が豊富ですから、「原発の電気はいるが、原発の運転の危険性は貧乏な福島と新潟がやり、廃棄物は青森がやれ!」と言っても、それで通る(つまり本当に事実になる)のです。
私が接している評論家も、「事実」を懇切丁寧に話してもほとんど興味がありません。「空気を事実とする」という強力なグループ(環境省、東大、NHK)がいて、それでしっかりとバインドをしているので、「事実」など認めなくてもちっとも困らない体制ができています。
科学的、合理的なことが認められない社会、それこそがかつての憲兵の社会であり、ソ連が崩壊した独裁の社会だったのです。ソ連の崩壊の最後に起こった「グラスノスチ」、これは情報公開と訳されていますが、「空気(ソ連政府)による事実」から「事実を事実として見る」ということであり、それによってソ連の国民がなにが起こっているかを知ったのです。
2011年3月11日まで「被曝は危険」と言って来たのに、12日から「被曝は大丈夫」に代わったのは、被曝と健康に関する「事実」が代わったのではなく、事故があまりに大きいので被曝の法律を守ることができないと考えた人が作りだした「空気」が代わったからです。
日本にもグラスノスチが必要です。それには、多くの日本人が「何か変だ」、「政府は信用できない」と思っているその原因が「東京の評論家や学者による「空気を事実とする」という報道」にあることが判れば、また明るい日本に戻ることができるでしょう。
(音声でペレストロイカといっているところがあるかもしれませんが、グラスノスチの間違いです。うっかりしました。)
(平成24年3月28日)