日本は「本音と建て前の違う社会」と言われます.四面が海に囲まれ、周りの人との人間関係がもっとも重要ですから、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」と言うとおり、本音を言わずに難しい問題を処理する習慣があります。

 

2011年の福島原発の後、長く日本人を被曝から守ってきた「1年1ミリ」という基準をいとも専門家が簡単に捨て、さらに「法律で決まっている」と言う私に「法律を守るなんて何だ!」と反撃してくる指導的立場の人の心が、私には理解できなかったのです。

 

昨年まで1年1ミリと言っていた人がなんで急に1年100ミリになるの?と思ったのですが、実は、その人の「本音」も「建前」もなかったのです。建前なら法律で決まっているのですから、「酔っぱらい運転はいけない」というように法律に基づいたことを言うでしょうし、「本音」は本音ですから、1ミリなら1ミリ、100ミリなら100ミリと統一されているでしょう。

 

このような経験は、リサイクル、温暖化、赤字国債など私が疑問を呈してきたことに対する評論家や専門家との議論で今まで何回か経験したことでした。リサイクルですと、エントロピー増大の原理にあからさまに反することを言う学会の学者に対して「どうしてこんなに普段から教えていることと違うことを言うのだろう?」と不思議に思いましたし、温暖化では「空気を暖めても海は暖まらない」という簡単な伝熱と比熱の問題に触れないで話をする学者に強い違和感を覚えたものです。

 

しかし、徐々にその疑問も解消していきました。現代の日本社会には、「本音」、「建前」の他に「空気的事実に基づく」という方法があることが判ったのです。つまり「本音」というのがその人の本当の考えとすると、「建前」は社会の規則や表面上の言動で、建前というのは「本音」があって初めて成立するものです。

 

それに対して「空気的事実」とは「本音がない」ことが前提、つまり自らの意見がなくて、その時その時に応じて周囲の空気を読み、それに応じて事実を創造してそれに基づいて話すことを指しています。

 

たとえばリサイクルですと、「分別したもののほとんどは燃やしている」、「焼却をリサイクルに入れているのでリサイクル率が高い」ということをすべて知っているのに、「周囲の空気はまだリサイクルがよいということになっている」ということを読み、「リサイクル率は60%もある」などと言います。このとき、科学的事実(焼却を除くとリサイクル率は5%以下)ということを知っていても、空気的事実(リサイクル率は60%)と言うことになりますが、これは建前でもなく、空気的であっても事実ですから本音でもあるのです。

 

その人と面と向かって1時間も話せば、間違っていることが明らかになることでも、短い時間、テレビのスタジオのようの限定された場所では「何を言っても逃げ切れるから、空気で行こう」ということです。つまり私の相手をしていた人は「本音も建て前も無い人」だったのです。バカらしい!!

 

被曝限度もそうで、原発の事故直後、みんなが「被曝など大丈夫。法律はない」と言っている時には空気的事実は「法律はない」ということになりますし、1年も経ってどうやら法律は1年1ミリを基準にしていることが判ると、「法律にある」というのが空気的事実になるのです。実は、本人は1年20ミリでも1ミリでも0.1ミリ(ドイツ)でもなんでも良く、その時の空気だけで事実を決めているのです。

 

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このことに気がつくのが遅かったのは、科学者としての私は「事実」からスタートしますので、他の人も事実に立脚していると思ったのです。またお医者さん、工場の人、営業、農業など「実業」をしている人も事実が最初です。

 

でも、考えてみると「東京に住んでいる評論家」は「客観的事実」が事実ではなく「みんながそうだと思っていること=空気」が事実なのです。だから、「空気に従う」ということは彼らにとって事実を重んじていることになります。

 

たとえば、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは「科学的事実」とは反しますが、「空気的事実」には合致しているのです。だから、事実認識が違うことになります。実に奇妙な時代になったものです。

 

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(平成24323日)