川柳の大会だったと思いますが、「心技体、みなうちそろい職がない」というような句が披露されていました。短いこの句を聞いたとき、私は「ああ、可哀想に。これも1990年に日本が変わったことの犠牲者だ」と感じました。

 

戦争に敗れた後、日本は戦後復興、高度成長と「日本全体を大きくすること」によってみんなが豊かになるという基本的な政策をとってきました。そこで生まれたものが、自民党政権、アメリカ依存(軍事・技術・輸出)、年功序列制、日本株式会社と言われた一体規制などでした。

 

ところが1990年ごろにバブルが崩壊すると、「日本全体を大きくすること」の手段を失い、「日本の富をどのように分配するか」という方向に舵を切ったのです。そこで出てきたのが「赤字国債、環境政策、海外進出、非正規雇用」などでした。なにしろ全体のパイが大きくならないのですから、どうしたら自分だけにそれが来るようにするかということに知恵を巡らすようになったのです。

 

成長が鈍化したのですから、企業の収益は上がらず、税収が減少したので、それを補うために国債を発行します。もともと国債は戦争などの特別な時にしか発行せず、国の仕事は国会の承認を得た税金の範囲で行われていたのですが、それが基本的に変化したのです。

 

官僚は国債を出し、それを「利子つき」で国民にかわせます。そうすると手元のお金が増えるので、それで天下り先を作るという手段にでました。国債の原資をもとにした補助金を特定の人たちに配り、そこに天下りするという方式です。

 

国債自体の償還も同じですが、国債に利子など付くはずも無いのです。国の仕事の94%は赤字ですから税金と同じように「使い捨て」の事業に投資するのですから、そこからお金が戻るような付加価値を持っているわけではありませんし、もしそのような仕事を国が大がかりにするというのは民業圧迫になります。

 

国債の利子は税金(もしくは借換債ですが、借換債というのは所詮、一時的なものですので、結局は税金です)で支払われます。つまり、国債というのは、お金持ちが国債を買い、利子を含めて償還し、国債と利子の合計を庶民からとるという仕組みなのです。

 

環境政策も同じで、「ゴミが溢れる(間違い)」、「焼却するとダイオキシンがでる(間違い)」、「CO2で地球が温暖化する(間違い)」などを連発して毎年、3兆円ほどのお金を使うようになりました。本当に環境が悪ければ、それを良くすることは再生産を生みますが、良い環境に資本を投じても発展するはずもないのです。これも「ドブに捨てる」ような活動でした。

 

非正規社員が誕生すると共に、社長の年俸が3000万円から2億円になり、総中流社会と言われた日本は格差社会へと進みます。「競争によって発展する」というのは個人主義の発達したアメリカなどでは有効ですが、「みんなで努力する」という駅伝型の日本では総中流の方が能率が良かったのです。

 

さらにグローバリゼーションと言われ、日本企業が海外に工場を造るようになって、戦後、一貫して高かった就職率が落ちてきます。昔から「百姓は命をかけて田畑(でんぱた)を守る」と言われたように、日本のような四面を海に囲まれた社会では、「子孫の雇用の確保」を日本列島内で達成する必要がありました。それも破られたのです。

 

「心技体、うちそろい職がない」というのはまさに、1)国債、環境などで国際的競争力を失い、2)非正規雇用、海外進出などで格差社会になった、ということで起こった現象と考えられます。

 

しかし、これも日本国民の選択であり、まず「空気」を作り、それをNHKが蔓延させ、「空気」以外の意見を排除し、「心を合わせることが大切だから空気に従え」という論理であらぬ方向に行ってしまった結果でもあります。

 

このように1990年を境に日本に「階級制」ができ、富の分配が「日本式、総中流」から「アメリカ式、何でもマネー」に変わったことがやがて「選挙で何を言っても当選してしまえば良い」、「地震がどこに来ようと、東海地震と言えば良い」、「どんなに危険な原発でも安全と言えば良い」という風潮を作り、それが2011年の悲惨な結果を生んだと考えられます。

 

日本が「頭が良くずるい指導者たちと純朴な国民」という二階級制度で進むか、それともこれまでのように「自らの富を追わない指導部と誠実で善良な国民」で行くか、それは次の選挙で国民が選択するものでしょう。

「takeda_20120322no.460-(9:33).mp3」をダウンロード

 

 

 

(平成24322日)