若い頃、聖書を読んでそのどこにも珠玉のような言葉が満ちあふれていることにビックリしたことを思い出します。まさに神の言葉なのでしょう。

 

その中に、普段は穏やかなイエス・キリストが怒りに燃えることが書かれています。それは「神を心から信じるか、それとのよい子のフリをするためか」が問われる場面で、腐敗した祈りの場などがそれにあたるようです。

 

聖書のその場面に強い印象を受けた私は、その後、なにか自らの学問や教育の信念に反することが目の前で行われているのに、腹が立たない自分を情けなく思うことが多くなりました。

 

たとえば、前々回に書いた「栄のCO2測定」ですが、このように科学をトリックに使うことを知った限りは、担当室長を罵倒し、自分が一人でいって栄のCO2測定器を取り外し、警察から器物損壊で逮捕されなければならない・・・そうしないと私の学問や教育の信念はなんだったのか?という疑問がわくからです。

 

このシリーズを「知の侮辱」と名付けて始めました。確かに、現代の日本には「知」を侮辱することが白昼堂々と行われ、それは科学者である私には大きなストレスになっています。でも、そう言う私も「知の侮辱」に対して徹底的な行動を取っているわけではなく、イエス・キリストのように知を侮辱する人や物事に対して、自らを捨てて行動にでなければならないと恥ずかしく思います。

 

いつも、さらにもう一歩激しくでるべきか?と迷うのですが、あるところで引き返します。その点では所詮、自分も人間だから利権をあさって知を侮辱している人とそれほど変わらないと恥ずかしく思うこともあります。

 

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この頃の学生はおとなしくなりましたから、先生にくってかかるような勢いのある学生はあまりいないのですが、それでも時々、「先生っ!そんなこと間違っていますっ!」と激しく迫る学生もいます。そんな学生がいるとうれしくなります。

 

そんなとき、事実や論理、科学としての考え方を説明するのが普通ですが、あまりに激しく納得しないときには、イエス・キリストやソクラテスの話をすることがあります。

 

「確かに君の言うことは正しいかも知れない。でも、現代人が誕生してから1,2を争う立派な人といえばイエス・キリストやソクラテスだが、その人たちはいずれも死刑にあっている。君の言うことが正しいのかも知れないが、世の中とあまりに違うときには死刑になるのだろうね」

 

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でも、思い返せばそれが人間ですし、人間社会の中でしか生きることはできないのですから、ここは東洋的にお釈迦様の「中庸」で行くのが良いのでしょう。「知」を盲目的に信じるのでもなく、「知」を侮辱するのでもなく、尊敬し、利用していくのが私たちの知恵というものだと思います。

 

私が重要だと思う順序があります。第一に「日本の子供」、第二に「日本の土地」、そして第三に「日本のコメ」です。子供、土地、コメの上に「日本」とつけているのは私の力量によるもので、到底「人類」というのは私の視野に入れることができないからです。

 

イエス・キリストは「神の思し召しのまま」と十字架につき、ソクラテスは「悪法も法なり」と弟子に教えて毒杯を口にしました。科学者である私は「私が正しいと思っていることは間違っている」と言うことが唯一の信念なので、到底、それほど強い行動に出ることはできません。

 

このシリーズではイエス・キリストやソクラテスの影を遠くに拝みながら、なんとか一つ一つの侮辱を、明日の子供たちのために整理をしていきたいと思っています。

「takeda_20120206no.415-(8:07).mp3」をダウンロード

 

 

 

(平成2426()