「安全と安心は違う」とか「安全かも知れないが安心できない」などと言います. でも、それがどのように違うのか、安全なものを安心するのはどうしたらよいかについて、ハッキリとしていません. そこで、その第一回として、能動的なリスクと受動的なリスクについて整理をしました. なお、リスクという用語はかなり難しいのですが、ここでは「危険性」とか「事故にあう確率」のような定義で使います。

 

人間は自分で「したい」と思うことをしている間は、それほど恐怖を感じないものです。なにしろ「冒険」とか「冬山登山」、「ヨットで太平洋横断」などがあるぐらいで、普段の生活とは格段に危険なのですが、挑戦する人は「安心」とは別の次元にいます.

 

それに対して、自分は別にしたくないのに受け身で被害を受けるととても心配になります。だから、「安全かどうか」というのは単なる確率の問題ですが、「安心できるか」は「自分がしたいか」という人間の心が関係してきます.

 

私がかつてリスクを勉強していた頃のイギリスのデータでは、人間は能動的(自分でしたい)か受動的(受け身)との間に、最大で1000倍の違いがあり、能動的で「これは危険だ」と感じる時には、受動的な人は最大で1000倍も危険に感じるということです。

 

オートバイで、運転する人と後ろに乗る人では、両方とも「能動的(乗りたい)」というのは同じなのですが、やはり運転手の方が恐怖を感じないという研究もあります。危険度はほぼ同じでも自分がやればそれだけさらに安心の度合いが違うということです。

 

たとえば、被曝では職業的な被曝は1年20ミリまでOKですが、一般人については1年0.02ミリがクリアランスレベル(受動的に「これなら安心」というレベル。1000分の1)が決まっているのは、この1000倍の考えかたがあるのでしょう.

 

まして、日本の電力会社は自分の従業員で原発に働く人について1年1ミリの自主規制をしていたのですから、普通の人が1年1ミリでも若干の不安を感じるのは「無用の不安」ではないと考えられます.

 

その点で、完全に受動的なリスクである福島原発の事故の被曝を、能動的な「喫煙」、「野菜不足」、「飲酒」などと比較するには、そのリスクを1000分の1にして、受動被曝と比較しなければなりません。その点で被曝によるガン死、もしくは発がんは1億人で1000人から1万人ですから、それと比較するなら、100万人から1000万人が死亡する危険性です。

 

私たちが「被曝と野菜不足が同じ危険性?!」とビックリするのは「安全」と「安心」を能動、受動という意味でもまったく考えていない・・・つまり、危険やリスクに対してほとんど勉強したことの無い人の論評ということになります。

 

今、政府が進めている低線量被曝のワーキンググループの議論は、いくら御用で進めているといっても、あまりに稚拙で、安全、安心の専門家としての見識を示さないと意味が無い. 特に、天寿を全うした時、最後の原因となった疾病と15歳の子供が世を去る原因を直接、比較したり、能動的行為と受動的な被害を同じテーブルで議論するなど、もっと多方面の人を入れて真剣に国民の健康を守る姿勢を示すべきです.

 

さらには別の機会に整理したいと思いますが、食品では「100分の1ルール」というのがあり、「1キロあたり100ミリグラム」が学問的な基準値の場合、それを100分の1にした濃度を現実の規制値にすることによって安全を保ちます.これは、1)学問に誤差がある、2)個人差がある、3)どのぐらい買うか定かではない、ということが理由になっています。被曝もそのぐらい謙虚な態度が必要でしょう.

 

(平成23125日)