リサイクルや温暖化の報道の時から、私は新聞の社説にはかなりの違和感をもっていた. 社説は「意見」を書くのだから、その人、その人によって違っても良いのだけれど、「意見」の前に「事実」があるのだから、あまりにも「事実」や「学問」に反する「意見」は科学者として同意できないところがあるからだ。
リサイクルなら、1)エントロピーの増大の原理に反していることについて新聞社内の科学者の意見を聞いたか、2)プラスチック材料は原則的に再利用できない、3)諸外国の状況はどうか、などは社説を書く前に必要なチェック項目だろう.
温暖化なら、1)伝熱工学の原理に反していないか、2)なぜ世界のほとんどの国が削減を使用としていないのか、3)温暖化は大したことが無いがそれをテコに省エネ技術などを進める方が良いと考えているなら、それを前面に出せないか、などを考慮する必要があるからだ。
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その意味で、原発事故についての新聞の社説も違和感がある。最近の大新聞(読売)の社説(2011年12月4日)からピックアップすると、その論点は次のようなものである。1)被曝より野菜不足の方がダメージが大きい、2)1生100ミリだから1年1ミリはメヤスにしか過ぎない、3)無用な不安が拡散し続ける状況を放置しておくべきではない。
私から見ると、ムチャクチャな論旨だが、大新聞の社説だからそれなりの根拠はあるだろう。でも、到底、科学的とは考えられない。
まず第一に「野菜不足」は150ミリシーベルト程度の被曝と同等ということで、この社説の言う100ミリの被曝とほぼ同程度ということだ。しかし、現在の被曝の問題は、「5歳の子供が東電のミスで15歳でガンになるかどうか」が心配されているが、「野菜不足」の調査はその詳細が必ずしも明らかになっていないが、概略の報告を見ると全年齢を対象とした調査で、特に「忙しい都会のビジネスマンが野菜不足になる」という結果になっている.
また、野菜不足は本人の注意に属することであり、被曝は強制的なリスクである。これまでのリスク研究によると、能動的リスクに対して受動的リスクの感度は約1000倍ということであり、野菜不足のリスクが被曝のリスクに比べて1000分の1であれば、その危険は「安心」という点で同等に感じられる.
また、今、心配されている子供、妊婦、女性などの問題と、都会のビジネスマンの比較はほとんど科学的には意味を持たない.たとえば、50歳以上の人は血圧が高いのでお風呂の事故が多いが、それと子供の被曝を比較して、「老人がお風呂で倒れる危険性と、子供が被曝してガンになる危険性が同程度」などという比較は科学ではない.
次に、1生100ベクレルということが事故後、急に出てきたが、放射線によるガンの発生メカニズム、人体の代謝、年齢による変化などを考慮すると、「1生100ベクレル」という根拠を見たことが無い。もっとも長い期間で5年であり、科学的根拠ばかりか法律的な根拠にも乏しい.
さらに、「無用の不安が拡散しつづける」ということについて、「放置すべきではない」という強い言葉を使っているが、この「無用の不安」というのは、1)法律で定められた1年1ミリシーベルト(食材を含む)以下の地域で不安を感じること、2)法律で定められた「管理区域」の中でもなにも防御がされていない地域で不安を感じること、さらに、3)法律に違反した1年5ミリ(セシウムのみ)の給食で不安に感じること、などの何を指しているのか不明瞭である.
内部被曝も入れた1年1ミリ以下の生活ができる場所で不安に感じるのは「無用」とまでは言えないが、やや過剰な心配かも知れない。しかし、現実に福島原発からの漏洩量が80京ベクレルと膨大なときに、それでも若干の不安を感じるのは清浄であり、「放置すべきでない」という表現は不適切と思う.
むしろ、法律で定められた限度を超えた危険な場所でお母さんが子どもの健康を心配することを「無用」ということなら、それは脱法行為を新聞の社説で主張するのだから、むしろ穏やかではない。
次に、1)管理区域を設定すべきところ、2)法律的に東電が除染すべきところ、さらには、3)給食に汚染された食材を使っている場合など、むしろ大新聞はそれについて国や東電、さらには教育委員会に対して厳しい指摘と取材が必要である。子供の発がんは被曝から短くても4年、標準的には10年なので、大新聞も法律を超えた被曝で10年後に発がんするかどうか判らないはずだ。
判らないことなのに、ハッキリした根拠を示さずに、また被曝量を限定せずに「無用の不安」と言うことを社説で言う見識を疑う. 科学技術立国として冷静で科学的な論評を望む。
(平成23年12月5日)