先日、名古屋である大手の会社の会館に行く機会があり、少し早く着いたのでロビーで座っていました。誰か背の高そうな男性がソファの方に歩いてきたので、つい見上げるとにらむような目で私を見ているのです。「なんだ、こいつ!」という感じでした。
それから数分後、私はその人が会館の受付係の一人であり、残りの二人の女性も同じように仏頂面をして接客のカウンターに座っていることがわかりました。営利を目的としているホテルなどで客にこんな顔をする人もたまにいるのですが、さすが大きな企業の会館だと感心しました。
もともと日本人というのがこんなにぶっきらぼうだったのか、それともほとほと生活に疲れてその精神的なストレスが顔にでているのか、もう少し陽気に勤めた方が本人も楽しいのにと可哀想に思いました。
暫くすると、その職員さんは威風堂堂、肩で風を切ってロビーを横切ると玄関先で腰に手を当ててあたりを睨んでいました。ちょうど、5時を少し回る夕刻で、私はその人のおかげで日本人というものの変化について考え、時間をつぶすことができたのです。
・・・・・・・・・
江戸末期、多くのヨーロッパ人が日本を訪れたとき、ほとんどの人が「なんて陽気な民族なのか!」と驚いています。いたずらはする、笑い転げる・・・彼らの目に日本人(庶民)は、礼儀は正しいし、働き者なのに無邪気な国民に映ったようです。
今でも地方に行くと、客に対して情あつく迎えてくれるかつての日本人の面影をみることが多いし、都会の人より地方の人の方が日本人の良いところを残しているような気がします。
ペリーの浦賀来航によってすっかり心が裂かれ、何が何だか判らなくなった日本人。身分制もなく、皆殺しもせず、笑いながら過ごしていた日本列島の素朴な民族はすでに失われていったのでしょうか?
東京電力は福島の大地と多くの人を苦しめ、それでも頭を下げず(本人たちは十二分に頭を下げていると思っていますが)、名古屋の中部電力も未だにかなり居丈高です。中央官僚や政治家の多くは「日本の中枢としての魂」より、税金を増やして国民を支配するということに興味があるようです。
その一方で、多くのお母さんが子供の被曝に苦しんでいるのに流通はベクレルを表示してくれません。社長が1億円を超える年俸をとる中でわずか200万円の賃金で臨時雇用されています。力があれば少しの贅沢は良いとしても、同じ日本人としてあまりに不適切な分配のように思えます。
礼儀正しく、善良で、陽気な日本人。若干の能力差があっても、神様や天皇陛下に比べれば、自分たちの差など同じようなものだと謙虚に分け合った日本人。何の役にも立たないマネーに目がくらんだ哀しい日本人を見るような気がします。
(平成23年11月22日)