食品安全委員会が2011年10月27日、恒久的な食品安全の基準を「生涯100ミリ」とした。これは食品安全委員会も発言したように「外部被曝がゼロの場合」で「生涯100ミリは外部と内部被曝の総計」であるという結論だ。

 

日本人の平均寿命は女性で86歳だが、このような場合には平均ではなく、ごく希な場合を除き、長寿の人が基準でなければならないので100歳ぐらいだろう。また、「将来、被曝が増えるか減るか不明」の時には、平均値かあるいは平均値より少なく毎年の値を決めるのも常識だ。

 

つまり、「生涯100ミリ」ということは「1年1ミリ」というこれまでの法令の基準をそのまま追認したことを意味している。その点では現時点でこのような決定をしたことは、「セシウムだけで1年5ミリという暫定基準値」が法令違反であることから、評価されるべきだろう。

 

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しかし、いくつかの問題点を含んでいる。もっとも大きな問題は、法令で定められている1年1ミリという「我慢の限度」と異なる決定を食品安全委員会ができるのかという問題である。

 

被曝限度は「正当化の原則」のもとで決められる。「正当化の原則」とは「被曝による損害」に見合う「利益」があるかどうかである。つまり日本では医療被曝、自然被曝の他に被曝する原因は原発の電気を貰うということであり、それによるメリットが「一生涯100ミリ」に相当する損害と同じであるかどうかという「正当化の原理」を吟味しなければならないからだ。

 

つまり、放射線被曝量の決め方は「どこまでが安全か」ではなく、「被曝は損害だが、どこまでは許容できるか」が「正当化の原則」だからである。その意味で、今度の決定は「まあまあ、なあなあ」の日本式論理が国の委員会レベルで認められたという点で、大きな禍根を残した。

 

福島原発事故の後で、多くの識者、専門家、役人などが口にする「被曝量の限度」は「野蛮国の論理」だった。つまり、野蛮国では国民は為政者のために時によっては「我慢」を強いられる。しかし民主主義の文明国では国民が主人であるから、私企業の活動のために我慢を強いられることはない。

 

国民が被曝するのは「電力会社の活動」によるものであり、それは「個人(法人)が国民に損害を与える」ことを意味している。だから、おいそれとは認めることはできない。ただ、私企業の行為が国民に益を与える限度において国家が国民の代わりに、それによる損害を認めるというのであるから、「正当化の原理」は厳しく守られなければならない。

 

その点では食品安全委員会が「野蛮国の原理=1生100ミリまで我慢せよ」として、「文明国の原理=1生100ミリの損害は原発の電気の利益と相殺する」ということを明言しなかったことは日本社会の低い論理レベルを露呈したと考えられる。また一つ、日本が近代社会になる機会を失った。

 

(平成231028日)