これまで色々な事件が起こっても比較的、良心的に専門家やマスコミとしての節度を保ってきた学者やNHKが、こと被曝に関しては突如として錯乱しています。普通の人は専門家でもありませんし、マスコミのようにチェックできるものでもありません。「何となくおかしい」と思ってもそれを具体的な形で示すことはできません。

 

だから、本来は、専門家やマスコミに「誠意」を求めるわけで、法律、社会で普通に使われることを大切にして欲しいのです。今度の福島原発の問題は政府の「直ちに健康に影響はない」という表現に専門家とNHKはビビってしまいました。政府があれほど誠意がないことを言うのだから、それに反抗するとひどい目にあうと思ったのでしょう。子供の健康と自分の立場を比較して子供を捨てたともいえます。

 

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その一つが「基準値」や「規制値」です。事故後、保安院が「ヨウ素が基準値の3355倍だが、健康に問題は無い」と言いました。私の見解ではこの発言だけで傷害罪と思います。つまり基準値の3355倍の海に入ったら「健康に害がある」からこそ基準値なのです。また公務員として法律や規則を遵守することを厳密に守る必要があり、公務員法にも違反するでしょう。

 

「基準値の3355倍だが、海に入らないから」ということを言う専門家がいますが、それは「牛肉のセシウムが基準値の20倍だが、牛肉を食べないから」という理屈と同じで、そのようにすればどんなものにも基準値は不要になります。

 

食品の基準値を決めるときには、その国民がどのようなものをどのような状態で食べるか、吸収率などを細かく検討しますが、もっと大切な原理原則は、「11キロ食べ、140ベクレルまでOK」ということなら、すべての食品を1キロあたり40ベクレル以下にしなければならないのです。

 

たとえば牛肉が1キロ100ベクレルで、1日牛肉を50グラム食べるとすると、10050をかけて1000で割るので「被曝はわずか5ベクレル」になり、「だから基準値が40ベクレルなら大丈夫」ということになります。事故後、政府、保安院、東電、食品安全委員会、東大教授、横浜市のパンフレット・・・など多くの専門機関、専門家がこのように言っています。

 

これは一種の犯罪行為とも言うべきトリックなのです。というのは、その人が牛肉を150グラム食べるとすると、「その他には食べないのか?」を断定しなければなりません。つまり、その人はいずれにしても1キロ(若干の水を含む)を食べるとすると、牛肉以外の食材が「まったく汚染されていない」ということを証明する必要があるからです。

 

現実的には汚染された牛肉を食べた人が、そのほかの食材はまったく汚染されていないことを証明することはできませんから、「病気にならないための計算」としては、「すべての食材が牛肉と同じように汚染されている」と仮定せざるを得ないのです。「被曝」というのは「受け手の受ける被曝の足し算」だからです。あくまでも牛肉を供給する側ではありません。

 

一関の中学生も同じです。たとえば学校の校庭は低線量率(たとえば0.5マイクロ)で、側溝がその10倍の5マイクロシーベルトだったとします。教育関係者は(おそらく生徒の健康には関心がなく、ただ大丈夫だと言って面倒な対策を回避したいだけですが)、「生徒が溝の近くにいる時間はせいぜい10分の1だから、5マイクロシーベルトを10で割って良い」と考えます。

 

仮に教育関係者がこのようなことを言えるためには、1)学校にいるときの生徒の行動を事細かに規制し、それを記録していること、2)生徒の学校外の行動と被曝をすべて把握していること、が必要だからです。従って、溝が5マイクロシーベルトの場合、「24時間、溝の近くにいること」を仮定して計算します。実際にも、その生徒が空間が1時間1マイクロのところで住み、食品を暫定基準内で食べていたら15ミリ(セシウムだけ、45月のヨウ素も含めれば10ミリ)ですから、すでにそれだけで(0.001×8760+10)=19ミリ になり大幅に被曝限度を超えているのです。

 

仮に一関の中学生が大丈夫というためには、全生徒の全生活における「学校生活以外の被曝量」を総計し、そのうちのもっとも被曝の多い生徒を確定して、その数値を示し(たとえばそれが1年0.99ミリの恐れがある場合)、残りの被曝量(0.01ミリ)だけが学校での被曝として許されるので、それが学校の溝の近くで大丈夫かということを言わなければならないのです。

 

そんなことは非現実的なので、規制値や基準値は「空間なら8760時間をかけ、食材なら1キロに換算し、それに水とホコリの被曝量を足して11ミリ以下」になるようにしなければならないのです。そして平均的にそれを出して、さらに「人による感受性の差」を3倍(放射線)とか10倍(食材)を考慮して規制値が決まります。

 

つまり、「善良な国民のうち、やや弱い人が善良な政府の規制値を信じて空気を吸い、家に住み、学校に行き、食事をし、水を飲み、校庭で運動しても、健康を害さない」ということになっているのです。

 

食品に含まれる農薬や添加物でも、お母さんがスーパーに行って、1)子供の年齢を考え、2)牛肉を買ってその中にどのぐらいの添加物が入っていたから野菜は**以下にしようと計算し、3)今日は汚染されたものを買ったから12品以上は買えない・・・などと考えなくても良いようになっているのです。

 

安心とはそのシステムが必要なのです。「おそらく大丈夫だろう」とか、「そんなのは特殊な例だ」と言うことは通用しません。

 

東京都知事が汚染された食材を食べてみたり、首相が福島の農産物を食べるのは何の意味もなく、日本は非科学的な野蛮国だということを知らせているに過ぎません。あれを正常な行為と思うのはかなり判断力が低下していると言わざるを得ないからです。

 

事故の起こった直後、私は「足し算のできない東大教授」と書きましたが、まさに今でも足し算のできない地方自治体の市長、教育委員長、NHKで溢れています。この際、善良な指導者に戻ってください(もう一つの問題は長くなって時間がなくなって来ましたので、明日以後に書きます。)

 

(平成231022日)