大臣が言った「痛みを分かち合う」といわれ、それにそって「東北の瓦礫で他県も汚染しよう」と言うことになったのには私はビックリしました。もちろん東北の瓦礫がすべて汚染されているのではありません。日本は近代国家で汚染の測定もできるのですから、汚染されていない瓦礫は積極的に受け入れて協力すれば良いのですが、受け入れの交渉は一切公開しない、それどころかどの市が受け入れるかも公表しないというのでは住民が不安になるのは当然で、国家の私物化とも言えるでしょう。
政府は「福島の人を助けよう」というかと思っていました。福島の人を助ける方法は、{詳細なマップ作り、汚染していない食材を使った給食、除染そのもの、福島原発5キロ以内を国家が買い取り、焼却設備・処理設備を作り、汚染されていない食材の供給、疎開先の準備やお金の援助}ですから、国がやろうと思えば簡単なことです。
でも考え見ると、これも私たちの今までの「甘さ」が原因しているかも知れません。
環境を研究している時、どうしても「地球に優しい」という言葉になじむことができませんでした。しかし、結構、分別もあり知識もある人が盛んに「地球に優しく」などと言う言葉を使われるので、いちいちクレームをつけていてもと思っていました。
たとえば、地球が誕生したときに、大気の95%はCO2で、少しのN2(窒素)があったに過ぎませんし、気温は1000℃を超えていたと考えられています。
だから、現在のCO2=0.04%とか、気温=16℃ですから、もし地球が「昔に戻りたい」と思っていたら、CO2はドンドンだして、もしそれで温暖化するなら地球は喜ぶでしょう。環境の専門家でそんなことを百も承知の人が地球に優しくという言葉を繰り返すのです。
そのうち、なんとなく「地球はCO2が少ない方が良いのだ」と錯覚して、さらに「オゾン層はCO2が増えたから破壊された」という珍説まで登場しています。もともとオゾン層ができた15億年ほど前は、CO2は現在と比較にならないほど高く、温度もかなり高かったので、その当時にできたオゾン層がCO2が多くなると破壊されるなど現在の科学では考えられないのです。
「痛みを分かち合う」、「地球に優しく」、「ゴミも分ければ資源」など言葉をいい加減に使っていると誤解が誤解を招きますが、この辺で「耳には心地よいが事実とは違う表現」を止めるようにしたいものです。本来なら「言葉、用語」を大切にする新聞やテレビまでもが新聞を読む人、テレビを聞く人に心地よさだけを考えて、日本語をダメにしているように感じられます。
今度の痛い経験を活かして、環境の専門家からまずは「地球に優しい」という言葉を使うのを止めて欲しいと思います。
(平成23年10月20日)