文学の世界、法律や経済の理論では「人間の欲望」とか「性悪説」などが全面に出てきますが、科学の一つとして人間社会を考察してみると、その他にもいろいろな要因があることが判ります。
「専門性」、「職業倫理」、「倫理の黄金律」、「誠実さ」、「脳の欠陥を理解すること」などをよく咀嚼することによって、よりよい判断をすることができるでしょう。それでもまだ人間がもつ本来的な業(ごう)を克服することができるかを考えてみたいと思います。
その一つに「事実を見つめる勇気」があります。19世紀、チャールズ・ダーウィンが進化論を提案したところ、社会から猛烈な反撃を受けました。ダーウィンが進化論を提唱する前は「人間は神に似せて作られた」とされていましたので、それを突然「サルから進化した」と言われたので、一、これまで知っていた知識と違う、二、自分がサルの子孫などと思いたくない、という強力な理由があったからです。
一番目の理由はすでに解説をしたように人間の頭脳は自分の頭の中に入っているものを使って判断するので、進化論の前に聖書から教わったものを「正しい」と考えるからです。第二番目の理由は「イヤだから事実を正面から見ることができない」という別の人間の特徴からのものです。
反撃に手を焼いたダーウィンは「勇気を持てば真実が見える」と言っています。この言葉を逆に表現すれば「真実を見るには勇気がいる」と言えます。今回の原発事故も「日本の原発は震度6で壊れる」という事実をどうしても見ることができませんでした。また「1年1ミリシーベルトという線量限度を守ると、ここに住むことができない」と思うと、1年1ミリシーベルとが被曝限界であることを納得することができないのです。
でも、身を守ることも、正しい判断をすることも勇気を持って真正面から事実を見るしかないのです。ここに人間の心の弱さと厳しい事実との関係があります。
もう一つ、人間には克服できずにいることがあいます。それは「目の前の善」と「全体で長期的な善」を比較することができないということです。
すでに寝たきりになった老人はある意味では人間社会に重荷になるかも知れません。そして医療費が増え、社会はその負担に耐えられなくなる危険性があります。でも、だからといって寝たきりになったら終わりになってもらうことは人間にはできません。
目の前に起こっていることは個別の善悪で判断し、それがたとえ全体の善悪と相反しても認めることはできないのです。歴史の流れを見ると「個別の善」に従ったが故に滅びるという例があるのですが、これは人間がまだ克服することができずにいます。
科学的、経済学的なことでは、「個別の電気製品の省エネ化は、国全体のエネルギー消費を増やす」ということや、「合成の誤謬」がこれに当たります。ペットボトルのリサイクルをすると石油の消費量が増えるとか、節約をすると環境が悪くなるなどと一見して逆説的に見えるものも、個別と全体の矛盾が潜んだ問題です。
しかし、人間が常に個別の善悪を重視して全体を無視するのかというとそうでもありません。「国のために死んでくれ」と兵士に言うのは全体を重んじて命までも捧げてくれということですし、学校教育でも「国のために優れた人を作るので、試験をする」ということが行われます。
克服せざる人間の矛盾も科学技術が欠陥をもつ大きな原因の一つになっていると考えられます。
(平成23年10月15日)