(このシリーズは3号機爆発の写真(映像)の公開性について考えるためのものです)
このブログでは「著作権パート1」として、著作権の発生の歴史、最近の著作権に関するやや過剰な防御などについて触れました。その後、「科学の進歩と人間シリーズ」で「倫理の黄金律」、つまり「相手のして欲しいことをしなさい」、「相手のして欲しくないことをしない」という考え方に言及しました。
これらの準備を経て、もう一度、著作権と知る権利について考えてみたいと思います。
もともと著作権は「創作や発明の意欲を高める」という目的を持っていましたが、何事も「仕事、お金」が基準になった現在では、「著作権で生活する」という積極的な利用も出てきましたし、ネットなどの出現で「非難されないために」という防御の意味もその理由になってきました。
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ところで私は学術の世界にいましたから、著作権については強い疑問がありました。特に「実験系」と言われる実験を主体とした研究は「自然を明らかにする」ということが主体ですから、測定した結果やそれをグラフにしたものは「地球ができたとき、あるいは数億年前から存在したもの」を単に数値やグラフで示したものですから、実験が正確なら創造性はなく、もしも実験に創造性があれば事実と異なるということになります。
また、実験結果から導き出される科学的な考察や結論も、論理的に導き出されるものであれば創造性はなく、必然的なものとなります。たとえば20世紀最大の発見と言われるワトソン・クリックのDNA構造の解明も「論理的に導き出されたもの」なら、学術的意義は大きいのですが、著作権に該当するとは考えられません。
でも、最近の風潮にのって「確かにデータそのものには著作権は無いかも知れないが、グラフにするときにわかりやすく工夫されている」という理由で著作権を主張する人も出てきました。そうなるともめるのもということになり、どれもこれもグラフを使えないようになってきたのです。
しかし、おおよそ科学のデータを整理するグラフはエクセルやオリジンといった汎用ソフトを用いたものが多く、さらには私が学生に教えるような初歩的で基本的なグラフがほとんどです。それは当然で科学の世界では事実をそのまま正確に相手に伝えることがもっとも大切ですから、他の人がいろいろ解釈できるような「創造性のあるグラフ」などで価値のあるものなどはほとんど無いからです。
マックス・ウェーバーが指摘したように「職業としての学問」が誕生し、学問が商売道具になったとき、すでに著作権は存在したのですが、「学問と著作権」の問題は深く議論されていません。
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それと同様にマスコミが創り出す膨大な情報、さらにはそれの1万倍以上となるネットでの情報が「高い創造性を持ち、社会的に保護しなければならないもの」である確率は高くないと考えられます。
私は書籍などを除いて、論文、講演、マスコミの発言、ブログなどに著作権を求めていませんが、その理由は、1)自分の作品が創造性に乏しいこと、2)読者の知る権利を尊重したいこと、の2つです。
私が書くことの多くは、データに基づいていますし、それを論理的に組み立てた内容がほとんどで、私が創造的に考え出したことなどもしあっても2%ぐらいではないかと感じます。たった2%の創造的部分があるからと言って、文章全体に著作権を主張するのはあまりに図々しく、もし主張するならある部分だけに「これはこのような理由で創造性がある」と断って著作権を主張したいと思っています。
人間社会における知的財産は、他人の助けなくして生まれるものではありません。その意味では現在の著作権は「権利を持つ側の一方的な言い分」が全面に出ているような気がします。情報を得たいと希望している方は、「ご商売は判るけれど、すでに儲けたあとのものなどは自由に使わせて欲しい」というのが正直なところと思います。また歌や絵画のような芸術的で生活に直接的に関係の無いものと、報道記事のように生活に直結するものを同一視するのも行き過ぎではないかと思います。
今回もまたこのシリーズの本題「命に関わる情報に著作権があるか」のところまで行かなかったのですが、少しずつ考えていきます。
(平成23年10月10日)