人類の実質的な寿命を8倍にして、苦痛を除いた科学技術が、一方では人類を500回も殺す兵器を増産するという両面性を持っていることを指摘しました。そしてこのような異常な状態になる理由が社会にあるらしいことが判りました。
そこでまず、「科学と社会」をどのように考えるのか、難しい議論があります。それは「原爆を作る方が悪いのか、原爆を使う方が悪いのか」というものです。もし科学者が原爆を作らなければ、もともと原爆はできません。もし科学者が原爆を作ってもそれを社会が使わなければ原爆は使われません。そのどちらが良いかというのは長い間、議論されてきました。
このことについては私は固い信念があります。私の信念が正しいかどうかはわかりませんが、長い間、科学者として技術者として仕事をし、多くの政治家、経済学者、文学者、科学者、技術者、それに医師、弁護士などの方とお会いし、話をしてきましたが、どうも「科学者や技術者」は社会全体を見てバランスのよい判断をしているようには見えないのです。
科学者(ただしくは自然科学者)や技術者という仕事は、若い頃から「物」を相手にして「人」との接触がすくなく、もともと人にはあまり関心が無いし、歴史や文学などは苦手な人も多いのです。
そうするとこれまでのことや人間の性質などに疎いので、「新しいものを作る」のは良いのですが、それが社会にとって良いかどうかの判断は少なくとも標準的ではないと思います。
結婚して間もない頃の私は典型的な技術者でした。歴史や文学が好きで学校のころは歴史書や小説を読みふけったものでしたが、技術者になってからは頭の中は「物」だけが閉めていたのです。ある時、家内と二人で東京の山手線のホームで電車を待っていたときのことです。向かい側のホームに京浜東北線が入ってきたので、私は家内に「モーター車が3台しか無いんだね。ディスクブレーキには変わっているけれど」と言ったら、家内は「なんですか?それ」と訝しげに返事をしました。
ホームの向こうに電車が入ってくると私は「モーターは?ブレーキは?パンタグラフは?」と興味がわいてくるのですが、おそらく家内は「どんな人が降りてくるのか」と見ていたかも知れません。若き技術者は社会では特殊な生活を送っているのです。
そんなことがあり、私は「科学者や技術者は作品をショーウィンドウに飾るのにとどめるべきだ。その作品を使うかどうかは社会が決める」という考えになったのです。ただ、作品をショーウィンドウに飾るときに「ウソの説明を書かない」ということが第一に必要です。たとえば原発ですと、原発が良いか悪いかは判断せずに、ショーウィンドウに飾り、説明書に「この原発は震度6ではほとんどの場合、破壊され、30年ごとに1回ぐらいは大爆発します」と書くということです。
たとえば「原爆は作ってはいけない」というのは当然のように思いますが、戦争の時に使うものは多いので、「刀は良い、ピストルは?機関銃は?焼夷弾は?ナパーム弾は?ジェット戦闘機は?爆撃機は?原爆は?」と個別に考えると結構、難しく作る側の人が決めるのはなかなか困難です。
「敵が攻めてきたら君の妻子も皆殺しになる。国を守るために銃ぐらいはいる」と言われるとそんな気もしますし、兵器を作る側の技術者はどんな兵器でも「気が向かないけれど、命令なら」という気分ではいるけれど、断固、拒否するというところまでは難しいのです。
科学技術で問題が起きる多くの場合は、科学者がその作品をショーウィンドウに飾ったことが原因ではなく、説明が不十分だったり、社会がある熱狂に巻き込まれていて説明を冷静に聞かなかった時に起こるようです。
(平成23年10月6日)