2011年3月12日に福島原発が爆発して以来、6ヶ月経っても政府は福島とその周辺の地域(関東を含む)を除染していません。今回の事故の根本的な解決が「福島の土地を元に戻す」ことであり、それは除染しかないことは明白ですが、なかなか実行されないのが残念です。福島の人の中には長い期間のストレスで被曝を甘受しようということすら見られるようになりました。

 

それではなぜ、日本のようにお金持ちの国で、除染がなされないのでしょう? 

 

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論点はある読者の方からよせられた次の文章の中にあります。 「一人ひとりには国家を形成しているすなわち団体競技をしているという意識が特に非常時は強くあるべきだと思う。」 

 

1) 個人の集合体が国家なのか?

 

2) 国家の歯車としての個人か?

 

この論争は人間の歴史が始まって以来から続いています。聖書の時代の昔話では「国家を作ると国民は制約される。国家を作らなければ敵が攻めてきて皆殺しにされる」ということで国家を選択したことになっています。

 

この前の戦争で世界の注目を浴びた日本の特攻隊は、その極端な例の一つです。私は特攻隊で突撃した若者を尊敬していますが、感情は別にして、「国家のために100%死ぬ行為をする」ということですから、完全に2)に属すると世界では受け取られました。

 

原発事故でヨーロッパでは「福島の食材を食べて被曝することが福島の人を助けるという思想は日本独特で、気持ちが悪い」と論評されているのは同じ受け取り方をされていることを示しています。ヨーロッパ人がどう考えても日本人は日本人ですから一向にかまわないのですが、一般的には社会が発展すると「国家の歯車としての個人」から「個人の集合体としての国家」に変わっていくとされています。

 

原発事故で「個人の集合体としての国家」という立場をとりますと、何が何でも福島とその周辺の人が被曝するのを避け、生活ができなければそれを補償し、あくまでも「日本のどの土地に住んでいても同じ「健康で文化的な生活を営む権利」を保証する」ということになると思います。

 

私のスタンスは「福島の人が大切」ということなので、とにかく福島で農作物を作らず、福島で被曝せず、なんとか早い時期に福島を旧に復するべきと考えています。日進市の花火も福島の人に元気になって貰おうという善意でスタートしたように思いますが、やはり福島の除染が先で、汚染された土地のものを測定しないで持ち出すのは、「福島の人は国家の歯車」ということで犠牲を強いることになると思います。

 

(平成23923日)