群馬県に富岡市というところがある。明治は世界に冠たる製糸場があって名をはせたところだが、すこし地味なのであまり話題にはのらない。交通で言えば高崎から碓氷峠に向かう途中であり、場所で言えば妙義山の麓だ。
明治5年に富岡製糸場ができたとき、明治政府は次の3つの制限を設けた。
1) 指導者は外国人に限る、
2) 製紙機械は外国製に限る、
3) 女工は日本各地からの日本人女性に限る、
実に簡素で正直である。明治維新から5年。まだ正直に事実を直視しなければすぐ外国に占領される危機を感じていた時代である。この富岡製糸場は日本の生糸の生産工場として、また日本中の製糸の技術の普及、技術者の養成に力を発揮した。
明治からすでに150年が経とうとしているが、この富岡製糸場の歴史は、今の私たち、特に地方の活性化に多くの教訓を与えてくれる。
・・・・・・・・・
簡単に言えば「地方活性化の五原則」が見える。
1) 「乞食」はダメ
2) 「自分たちにも」はダメ
3) 「時代の先端」でなければダメ
4) 「正直、事実」でなければダメ
5) 「子供たちのため」でなければダメ
日本の法律に「乞食は禁止。罰金1万円以下」というのがあることを最近知った。そういえば憲法に「勤労の義務」という規定があるが、一人一人はともかくとして、日本人全体を考えると誰かが働いてコメを作り、ほうれん草を育て、豚舎や鶏舎を経営し、工場を運転し、子供を教育しないと日本は立ちゆかない。「勤労」が国民の義務であり、乞食は罰せられるのも当然かも知れない。
乞食の典型的な例が「原発交付金を狙って原発を誘致する」ことである。「原発を誘致して日本のエネルギー確保に貢献し、合わせて関連企業の育成を図る」というのは正しい。似て非なるものである。しかし、お金は魔物だ。ひとたび何もしないでお金を手にすると、そのうま味は到底、理性では克服できない。会社の金でただ飯を食い、お得意さんに接待を受けていると、やみつきになるのは世の常である。
原発交付金を受け取った地方は、その交付金で新しい産業が起きたり、その地方の人の力があがることはないと言われている。交付金はまるで痲薬のように人の心をむしばみ、歯を食いしばっても新しいものを生み出していくなどということはできなくなる。乞食はダメだ。
「自分たちにもできること」は危険だ。かつて私が世界と競って研究をしていた頃、手を焼いたのが「低度の独創性」だった。「世界で初めてです!」と研究者がいうものの、「確かに誰もやっていなかったことではあるが、レベルが低い」のである。そんなものを採用していたら競争には勝てない。あまり良い例が浮かばないが、独特のフォームで投げる(野球のピッチャー)のだが、打たれてばかりいるというような感じだ。独自は独自だが、通用しない。
人口が10万人ぐらいの市で、「独自で世界に通用する」というような技術やビジネスが誕生するのは難しい。そこにいる人に問題があるのではなく、人の力というのは、「人の数×人の数」と言われる。つまり1人が10人になれば、力は{10×10=100}になる。
だから、大国の方がオリンピックなども金メダルを取る人が多い。その点では人口10万人ぐらいの市ではなかなか世界に冠たる仕事を始めることは難しいので、やはり「他人の力」を借りた方が良いが、その時「乞食にならないこと」、つまり他人の力は借りるが、お金は貰わないことが必要だろう。
また、次の時代の先端も同じだが、明治5年には生糸だったが、今ではクラウドとか、巨大ドームなどだから、狙いを定めることも必要だ。眼力はいる。
そして、なんとしても「子供ために」、「大人は正直に、誠実に、事実を見る勇気」が条件だろう。「子供のために」というのは、「今の生活を豊かにするためにお金を貰う」ということはほとんど「子供のために」にはならない。だから「子供のために」を意識することで自然に未来に向かう。人間は未来に向かうと上昇し、今を大切にすると下降する。
ともあれ、富岡青年会議所の若きメンバーは熱く燃えていた。
(平成23年9月21日)