放射線被曝と人体の関係は研究が遅れていて、このブログに再三、記載しているようにある期間で100ミリシーベルト以下の被曝は医学的には不明です。このようなケースは環境汚染ではこれまでの多く、その場合の考え方はすでに「予防原則」ということで決定しています。つまり、
1) 学問的に決定できない場合は合意を持って決定する、
2) 学問的に決定できない場合は安全サイドで決定してよい、
ということです。このような概念から、100ミリシーベルトの過剰発がん確率{5/1000}と原点を直線で結び、1億人に5000人の発がんになる点を求めて1年1ミリシーベルトとしています。
1年1ミリシーベルトが安全か危険かは「医学的に不明」なのですから、何人も他人の健康に影響を与えるときには「安全」とか「危険」とか言うことはできません。ちなみに、現実的にこれを達成するためには、クリアランス・レベル(これ以下は放射性物質で汚染されていないというレベル)は0.01ミリシーベルト、原子力発電所境界では0.05ミリシーベルト、一般的に放射性物質を使うところからの排気ガスや廃液は1ミリシーベルトなどが決まっています。
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ところが福島原発事故が起こって以来、1年1ミリシーベルトより高くても健康に影響がないと発言される医師、専門家が登場しました。「言論の自由」がありますから、このような発言の自由はあると考えられますが、現実的に除染などを実施する立場の自治体などが、法律の規定や明確な社会的合意がある時に、それに反する記述、行為をすることができるでしょうか? その他に法の決まりや社会的合意に反すると考えられるものが多くあり、それがもとになって子供たちが被曝したり、危険な食材が販売されていたりしていると思います。
● 種々の法律や規則によって例えばセシウム137の場合、その放射線が1キロあたり1万ベクレルを超えた場合には「放射性物質」として特別に扱う必要がありますが、それを超えていても「知らない顔」をしたり「問題ない」として何かの不作為(取り除いたりしないこと)ができないと考えるのが常識でしょう。
● マスコミなどやや公的な情報発信の人たちが、「法律」に触れずに「自分の考え」だけを言うことが許されるかも言論の自由との関係で整理が必要でしょう。たとえば、マスコミは今でも公的には「1年1ミリシーベルトが法律で定まっている」という表現をとっていません。私の感じでは、ある高速道路の速度制限が80キロでも、そこにプロのドライバーを登場させ、「このような道路では120キロで走っても問題は無い」と言うことだけを放送しているような気がします。
● 福島原発の事故の後、「平常時」とか「非常時」という言葉が出てきて、「東電は普通の人間と違う(これまで議員さんにお金を配ったり、巨大な会社だから)ので、ヘマをしても非常時として優遇する」という見られます。たとえば、今は福島原発境界は1年0.05ミリシーベルトを遙かに超えていますが、それは不問に付されています。それどころか食品の暫定基準の議論でも「普通の人がヘマをしても法律を守らなければならないが、東電は守らなくても良い」という趣旨の発言が専門家からでています。これは日本国憲法が定める「法の下の平等」に反するのではないかと考えられます。
● 東電は「除染はしないが、被害がでたら補償する」と言っていますが、法律的に障害を起こすことが予想される時、その状態を放置しておいて、それによって損害が発生したらその時にはお金を出すという言動は許されていません。たとえば、過失で火事を起こし、それを放置して「やけどをした人がでたら補償する」といって火事を消さないようなことです。
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これらのことは除染を遅らせたり、食材の汚染を促進したり、被曝を増やしたりする原因になっています。従って、法律の遵守、社会的な約束の重視、それらの改訂手続きのルールなどについて、日本社会がもっとハッキリとした論理で進む必要があると考えられます。
(平成23年9月10日)