日本国民は税金を払って政府を維持しているが、政府の役割の主要なものの一つに「国民の安全を守る」という役割がある。

かつては軍隊を作って外敵から国を守ることだったが、現代の社会ではそれは多様になり、自然の災害や人的な被害、その他のものにも国は備えている。

例えば、ある会社が工場を作って運転を開始する時には、工場の目的、製品、図面、安全対策等をしかるべき役所に提出し、認可を受ける。

その後、工場が稼働したらその認可に沿って、誠実に正しく工場を運営する限りは罪が問われない。

・・・・・・・・・

ところが、当然と思われるこの概念は歴史的には少なくとも守られていない。

その典型的なものの一つが、熊本県で起こった水俣病であった。

水俣病の原因は工場が水銀を海に出したことであったが、当時は水銀は毒性物質ではないと思われていた。

わたくしは小さい頃、歯の治療を受けると水銀を歯に詰められたものである。女性の白粉には酸化水銀が顔に塗られ、神社の鳥居の塗料は朱色の硫化水銀だった。

水銀は日常的に使用され、歯医者が口の中にも使うような材料であった。

水俣病を起こした会社は、「正しく」工場を設計し、認可を受け、全く違反なく工場の運転をしていたが、毒性物質とは思っていなかった水銀が海に流れそれによって、大量の健康の障害者を出したのである。

水俣病の裁判はすでに終わっていて「無過失責任」という極めて奇妙な理屈をこねた判決で会社の責任となっている。しかし、この無責任な判決が、後の被害者を生んでいる.

つまり水俣病起こした会社は、当時の知識において正しく設計し、運転したのだから、どこから見ても過失はない。

強いて過失を探せば、熊本県や日本政府がその会社の操業を認めたということであるが「自治体や政府は間違いをしない」という原則があるので裁判では免責された。

そうすると責任をかぶせるところはないので、会社に過失責任という責任を課したのである。しかし、過失のないところに責任を求めても前進的な結果は得られない.

・・・・・・・・・

この判決は短期的には、会社に責任が生じたので、会社から被害者に補償金を出す根拠になった。それは「つけやきば」の対策にしか過ぎなかった。

長期的には私の様々な執筆にもあるように、この矛盾した判決が、その後、多くの被害をうむことになり、カネミ油症事件、ミドリ十字事件など、結果的には国民が苦しむことになった。

つまり、会社にとって工場を運転するときに「知らなかった危険性を察知する」ことは不可能である。それを国の責任にすることも直接的には無理である。

つまり、水俣病の場合も「想定外」の事が起こったのであり、想定外のことが起こった時に、それをどうするかという議論がなおざりになっていた。

裁判長は、弱い立場の企業にその責任をなすりつけるのは容易だから、その道をとった。裁判官のやりそうなことだ。

・・・・・・

ただ、このような裁判官の判断に社会的に見て合理性を与えたのが、水銀の時も会社の社長らの態度であり、今回の東京電力の役員の顔つきである。

庶民から見ると、最初からこの人たちは、高級をとり、おいしいものを食べ、豊かな生活をしているという意識がある。

さらに、その人たちが事故後、目の前に現れてみると傲慢な顔をして接してくる.それだけで感情を高ぶらせる原因になり、やがてそれは責任論となる。

現代の日本では裁判官が社会の情勢に弱いことは多くの裁判例が示しており、決して裁判が社会の最後の砦として正義を決めてくれるものではない。

人間の活動には常に想定外が存在する。その想定外の被害を国民にかぶせ、特定の企業を糾弾することによって処理をしてきた。

・・・・・・・・・

福島原発事故は、発生した直後であるが、すでに水俣病と同じ経過を辿っている。

事故の批判は、その中心的な原因を作った安全委員会や保安院には向けられず、東京電力に注がれるとともに、例えば浜岡原発については地震の想定が適切あるかどうかという従来の問いから、一時、運転中止が決まった。

また、東京電力の役員報酬は不十分ではあるが50%削減が発表されているが、事故の原因となった原子力安全委員会や原子力安全保安院の役人に対する報酬の削減は公表されていない。

今回の福島原発の真なる原因は、地震や津波、台風などの自然現象の想定には限界があり、それを超えたときに国民が被曝するという考え方で良いのかということである。

これを認めながら、原発を進めていくのか、それともこのような巨大技術は「人間の想定に限界があることを認め、別の概念を適応しなければいけないのか」、それこそが今回の原発の本当に考えなければならないことである。

これを解決しなければ、水俣病、カネミ油症事件、ミドリ十字エイズ事件など多くの犠牲者を伴ったこれまでの事故と同じように何ら教訓を得ることなく、終わってしまうであろう。

私たちは次々と開発される巨大技術に対して、人間の頭脳の限界との関係を調整できず、それを「犠牲者」という形でつじつまを合わせているのだ。

(平成2355日 午後2時 執筆)