「タバコを考える」というシリーズはこれで12回目になります

わたくしの最初の興味は、タバコは本当に肺癌の原因になるのか、原因になるにしても日本は肺癌が非常に少ないので、アメリカやヨーロッパと同列には考えることができないのではないかということでした。

また第2には、たばこという文化は日本でも世界でも長く続いてきたもので、一部の人がそれを否定することができるのかという疑問もありました。

さらに具体的には、日本国憲法で成人の日本人は自分の行動を強く規制されないはずなのに、こともあろうに自治体などが「タバコを吸う人の健康」を理由に喫煙を強く規制していることです。

また極端な例では、「タバコを吸う人は診察しない」という医師もおられます。そのお医者さんに聞いてますと「忙しいのに、自分で不健康になるような人を診察する暇はない」と言われますが、わたくしがこれまで勉強した医学の倫理にはまったく反しています.

医師は戦争の是非を問わず、負傷兵を必死で治すものです。

このようにあれやこれや禁煙の問題については考えなければならない問題が多いので、すでにシリーズが12回になってしまいました。

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ところが、タバコの煙で被害を受ける人のことについては、このシリーズでもまだあまり触れて来ませんでした。

実は「受動喫煙」とか「副流煙」と言われる問題は、禁煙運動が行き詰まったので、それに対する回避策としてでできたという歴史ががあります。

つまり、禁煙運動は最初の段階で「タバコを吸う本人が健康を害する」ということで大々的に展開されたのに、それがなかなかうまくいかないとみると、禁煙利権に絡む人たちが、さかんに副流煙のことを言い始めたわけです。

このような曲がった運動は、本当に副流煙で困っている人には役に立ちません。例えば、呼吸器が弱くてタバコの煙を吸うと大変に苦しい人がいます。

実は私がそうで、タバコの煙で咳がでます。それもとても苦しいのです.でも、私は人の行動を制限したくないので、自分が苦しむことにしています.

わたくしはそのくらいですむのですが、タバコの煙に対してさらに敏感な人がおられます。その人達は、他人が楽しみで吸うタバコで苦しむのですから、到底我慢するわけにはいきません。

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一体、「禁煙運動」というのは何のためにしているのでしょうか。吸う人の健康や寿命を問題にしているというなら、それは実にお節介です.

私はタバコを吸う人の寿命が短くなってもそれはあまり問題にするべきではないと思います。これ程たばこの害を繰り返し繰り返し言われているわけですし、もともとタバコを吸う人は判断力のある大人に限られているわけですから、本人のために強制的に禁煙を進める必要などどこにもないのです。

しかし、タバコの煙で被害を受ける人は、禁煙はとても大切なことで、むしろ「禁煙運動」等というような甘いものではなく、直接的に法律で禁止する必要があると思います。

しかし、問題はここにあります。

今まで禁煙運動というのはタバコを吸う人の健康に中心にしたために、「タバコの煙んで苦しむ人のデータ」がほとんどないのです。

なんでそんなことなってしまったのか? もともと、タバコを吸う本人はあまり問題ではなく、タバコの煙で被害を受ける人が問題なのに、利権がからむ運動ですから、タバコで他人にどのぐらいの被害が発生しているのか、それを防止することはできないのか、あるいタバコの煙で被害を受けた人の呼吸器の治療などほとんど研究が進んでいません。

わたくしが禁煙運動に対して批判的なのは、本当に苦しむ人を助けず思想的、形式的に禁煙運動が進んでいることによるのです。このような状態ですといつまでたっても、タバコの煙によって苦しむ人の状態が社会的に明らかにならず、なにも改善されないからです.

つまり「禁煙運動」とは、「悪いことをするタバコを吸う人を助ける」のではなく、「タバコを吸わないのにタバコで苦しむ人を助ける」ことでないと意味がないのです.

(平成23214日 執筆)