「あいつがこんな事を言っていた!ケシカラン奴だ!もう、2度とあいつとは口をきかないっ!」

と息巻いている人がいます。優しい女性ならこんなぞんざいな言葉を吐くことはないのですが、男性より激しく心の底で相手を憎んでいることが多いようです.

確かに人間は「意見が違う」と「その人を嫌いになる」という傾向があるようです。人情としては分からないでも無いのですが、その「意見」というのは、その人全体からいえばホンのわずかなことかも知れません。

というか、一つの事に対する意見など、その人のある面、それも1000分の1ぐらいのある断面を出しているに過ぎない場合が多いのです.

その人はとても愛すべき人かも知れません。朝寝坊で、慌てて朝ご飯をかきこんで、咽せたり、忘れ物が多く、そのたび毎に大きな体を揺すって汗をかきながら家に戻るという愛すべき人かも知れません.

また、よくよく見るとその人が選ぶ洋服の色や靴の形など、奇妙に自分と同じで、聞いてみるとビックリしたことにご両親は同郷だった!ということもあるでしょう。

でも、昔から「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というとおり、人間の心は自分で憎さが膨張してしまうものです。

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私が「その人の言っていること」に異論があっても、「その人に親しみを覚える」ということができるようになったのは、45歳ぐらいだったかも知れません。

それまで、研究をしてきた私は「研究を始めるときに、自分が正しいと考えていたことが間違っていた」という経験を多くした結果、「自分が正しいと考えていることは正しくない」と思うことができるようになったのです。

だから、自分と違う考えの人がおられても、自分とその人とどちらが正しいのかは分からない、とりあえず自分は自分が正しいと思うことで行動していかなければならないけれど、自分が間違っているかも知れないと思い出したからです.

それからというもの、人との諍いも減り、あまり腹も立たなくなり、毎日が楽しくなりました。

私が「Aが正しい」と思い、相手が「Bが正しい」と考えたとして、本当にAとBのどちらが正しいかはお釈迦様に聞いてみなければ分からないことです.

「私がAと思うのだからAが正しい」という論理はあまりにも自分勝手です.でも人間は哀しいことに、自分が正しいと思うことを正しいと思わないと毎日を送ることができませんから、それは仕方がないのですが、それでもこのことを心の隅に入れておけるようになったのです.

「罪を憎んで人を憎まず」とも言います. 法律を犯すような犯罪でも、その犯罪自体を憎んでも、その犯罪をした人を憎まないようにするという孔子の言葉はやはりかみしめる必要があるのでしょう。

(孔叢子刑論「其意悪其人不憎」。英語圏では Condemn the offense, but pity the offender.”))

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他人と意見が違うとき、その意見を採り上げずに「あいつはダメだ」、「あいつは・・・」だとレッテルを貼ってしまえばその方が簡単ですが、それでは社会は進歩しないと思います.

「自分の考えが正しいわけではない。ただ、自分はそう思っているだけだ」と自戒することがとても大切ではないか、自分の人生も幸福になり、健康になるのではないかと私は思うのです.

(平成2319日 執筆)