消費するものをできるだけ少なくすること、すなわち「節約」は環境を考える時に常に出てくる用語である.しかし、節約という用語は環境に関係があるのか、それとも単なる道徳的用語なのか、考えてみたい。

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現代社会のもう一つの基本的道徳の一つに、

「勉学するときには勉学にいそしみ、その力を元に努力を重ねて社会に貢献する」

ということがある。日本国憲法にも「勤労の義務」が定められているが、日本の国力をみんなの労働で分担しようとする思想だ。

封建時代には身分が決まり、社会の発展は抑制され、さらに日本では鎖国政策によって他国との競争も行われなかった。従って、そこでの基本道徳は、

「身分に従って、期待されることを間違いなくやっていく。発展や変化、身分を超えるような努力は賞賛されない」

と考えられた。

現代社会において、勉学にいそしみ社会に貢献して立派な人間になるのは道徳的に是とされる。これを物質収支で表現すると、

「社会に貢献しうる人間となり物質収支を増大させる(高い成長率の維持と個人の豊かな生活)ことは善である」

ということになる。社会に貢献すれば、社会はその人により広い家を与え、より快適な生活を保障する.

さらに自由主義で資本主義の国家であれば、社会に貢献するということは、機会均等の上で競争に勝ち、資本を活かして収益を上げることである。

事実、日本社会をリードする人たちは、いずれも競争に勝ち、何らかの形で収益を上げ、社会から尊敬されている.そして彼らが消費する物質量は日本人平均よりかなり多い.

そして、収益、すなわち所得が多く、節約をすることは不可能である.

第一に、毎月の所得は不意に訪れる困難に備えるための貯蓄を除けば健全に消費するのが道徳的である.所得が多いのに、その一部しか消費しない場合、残りの所得を放棄するなら、所得を獲得するときに拒否するのが適当である.

また、その所得が社会的に適正であれば、それを受け取ることが社会の秩序から言えば正義である。従って、適正な所得を受け取ることは道徳的に正しい。

所得を受け取れば節約することはできない.従って、節約するためには、社会に貢献しないようにするか、あるいは勉学に悖る行為をすることになるが、これは道徳的に正しいとはされない。

従って、節約は、それ自体で道徳的に意味のあることでもないことが分かる。

かつて節約が道徳的とされたのは、日本人が生活する上で、日本人が生産する量が不足し、物質が行き渡らない時、あるいは物質生産に過酷な労働を要し、その労働に対する深い感謝の気持ちが必要だったからである。

現在の日本は生産が過剰であり、工場生産の多くは機械がそれを担っているので、状況はまったく異なる.つまり「感謝」の対象はすでに、具体的生産活動は人間から機械(企業収益)に、生産システムは個人の努力からシステマチックな企業へと変化しているのである.

さらに、現代の日本において指導層の「節約」はその言葉の響きとは正反対で、もっとも非道徳的な意味で使用される.

すなわち、自らは高い所得を得て膨大な物質を消費しているが、それでは社会的尊敬を得られないので、社会に見えるところだけを「節約」で粉飾する方法が採られる時すらある.

このような「偽装された節約」はもっとも非道徳的なものとして批判されるべきであり、環境学を後退させる要因にもなっている。

「偽装された節約」を標榜する指導者の中には「所得の10分の1で生活をして、残りを貯蓄している」という場合もあるが、貯蓄している間はそのお金は別の人が使い、貯蓄を戻したらその指導者が使用するので、単純に使用した場合に比較して2倍の物質消費を招く.

「消費は美徳」、「節約すべきである」という言葉は単にある時代には意味があったが、「適正に得た所得を、本人の人生観に従って自由に使用することが基本的人権を保障した社会ではもっとも適切である」と考えるべきである.

仮に社会が何かの制約で国全体で物質消費量を制限しなければならない場合、それは個人の節約に依存するのではなく、国全体で生産の制約を設けるのが適当である.

以上のように「個人の節約活動」は非道徳的であり、環境に関係のない言葉であると結論される.

(平成221224日 執筆)

(注) 環境問題に関心がある方で、これまで「節約」することは環境に大切と思ってきた方が多いと思います。日本人の自然の心の動きとしては節約することは良いことだという方向に行くでしょうが、今の政治や経済を見るとわかるように社会はすでに大きく変化しています.その中で、今まで当然のように考えてきたことを一から見直し、あまり他人を批判することなく、議論するのは大切と思います.

 その点で、「節約」をしている人は同時にかなり「攻撃的」であることが気になります。自分が良いことしているから、他人を攻撃するというのはよく見られますが、本当に自分は節約しているのか、また節約するためにお金をもらわないようにしているのかというところまで行くと、なかなか自信を持って節約を説ける人はすくないように思うのです.