ベッドの上でうずくまりながら、私は次の発作を待ち構えていた。

最初の腎臓結石の時には、あまりの痛さに気が遠くなり、その後は痛みをあまり感じなかった。「ああ、そうか、人間というのは耐えられない痛みは無いのだな。その前に気が遠くなるのか!」とおもったものだ。

でも、2度目の今度はそれほどの痛みは無い。数分ごとに来る発作の痛みの比較もできる。そして待つ。

やがてその痛みがやってきた。私が苦しみ出すと、看護婦さんが傍に来てくれて、ベッドの上で丸くなって痛みに耐える私の腰をさすってくれた。

おお!・・・痛みが少し和らいで来るではないか!

最初は「さすが若い女性の力はすごい。それとも私が女性に弱いのかな?」と思った。そして、その痛みを乗り切るとまた小康状態が来る。

でも、今度は「次の痛みを越えられる?」という不安が少なくなっていることに気がついた.もしかすると次の発作で看護婦さんがさすってくれると痛みはそれほどではないのではないか?と思うと不安感は減ってきたのだ。

やがて予想通りに激痛がやってくて、看護婦さんがまた優しくさすってくれる.私は痛みの中で「さすってくれなかった時と、今とどちらが本当に痛いのだろうか?」と考えた.

「俺も科学者だ。そのぐらいは客観的に判断しなければ・・」

そのぐらい分からなければ俺も一流の科学者とは言えない。冷静になるのだ、痛みが激しくてもデータだけは取ろう!

そして・・・

看護婦さんがさすってくれると、明らかに「痛み」自身が減る.それに加えて「痛みを克服できる」という確信がわいてくるのだ。

・・・・・・・・・

人間は故障する.故障は、体が壊れたり、ある時には心が病む。

心が故障したときに、私たちは心をさすってあげない。心に手が届かないこともあるけれど、目に見えないから「心も故障する」ということの実感が無いのだ。

だから、苦しんでいる人を非難したりする.心が痛んでいる人を非難するというのは、「傷を叩く」ようなものだ。痛くて痛くてたまらない傷、それを時としてあの優しいお母さんまでが子供の傷を叩くのである。

心の傷はなでてやりたい。傍にいる人にも心の傷は見えないけれど、それをさすってあげたい。

辛いと言って泣いている人を慰めてはいけない。もちろん叱ってもいけない。理由を聞いてもいけない。

じゃあ、傷ついた心をさするのはどうしたら良いのか?

なにも言わない。なにも聞かない.ただ、自分も一緒に泣く。辛いと泣いている人より大きな声で泣く.

傷ついて痛いと泣いている人の横で、自分も泣く.ただそれだけだ。

・・・体の痛みはさすってくれることによって和らぐ.そしてその痛みを超えられるという気持ちがわく。

・・・心の痛みをさすってくれれば痛みを和らぐ.そしてやがてその人は痛みを克服して元気になるだろう.

(平成2312日 執筆)