江戸時代、庶民が借金をするときに、

「もしもお返しできないときは、お笑いになって結構です・・・」

と言った。「笑いもの」になるというのは、名誉ある日本人にとって耐え難い屈辱であり、武士はもちろんのこと、庶民さえももっとも大切にしたのは「人間としての価値」であり、それを「笑われる」という事は死よりも辛いことだったのである.

そして、社会も決して「笑いもの」を許さなかった。

もちろん、笑いものを許さないという裏には、誠意のある社会が前提で、「普通の人はウソをつかない」ということが前提になっている。だから「笑いもの」は本当の意味で「軽蔑しなければならない人」だったのだ。

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大相撲や歌舞伎などには多くの日本の伝統が残っている.たとえば、親が家元なら子供もその名跡を継ぐことができるなど、いわゆるヨーロッパ風の民主主義では許されないことが「伝統」という名の下で残っている.

私は日本の伝統は残すべきだという意見である.

なぜなら、日本の文化は、アメリカなどとは比べものにならないほどであり、世界に誇ることができるのだから、その文化は大切にしなければならないからである.

しかし、朝青龍や海老蔵の事件を見ていると、都合のよい伝統は使い、都合が悪くなるとヨーロッパに逃げるという感じがする.

朝青龍はモンゴル人だから日本の文化を知らなくても仕方がない。教えなかった、もしくは徹底できなかった親方や相撲協会の問題だろう.

でも、海老蔵は日本人だ。もし、市川家が代々、女や酒にだらしないなら、徹底的に日本の伝統に従い、喧嘩でケガをして帰ってきても警察などに電話するな!ということだ。

警察も呼ばず、病院にも入らず、ジッと痛みをこらえて「恥」をかかない行動を取っていれば、まだ伝統芸能を背負う人として情状酌量の余地はある.

「良いとこどり」は日本文化ではない。

「潔さ」が日本文化である.

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私は2010年の1月と11月に起こった日本伝統の危機に対して、「お笑いになって結構です」という言葉を思い出し、もしそれを守れないなら、そんな「伝統芸能」などは日本に必要ない.

都合の良いときには伝統を使い、都合が悪くなるとヨーロッパに逃げるというのは、日本人が「恥」とともに大切にしてきた「誠」に悖るからだ。

この際、日本文化の伝統に従い、潔く明るくこの事件を終わりたい.

(平成221212日 執筆)