かつて日本がまだヨーロッパ諸国の圧力に必死に防戦していた頃、それは明治時代から大正にかけてだが、国民の教育は「国家のため」という色彩が強かった.

明治のはじめに定められた教育勅語は必ずしも「国家のための個人」という考え方ではなかったが、実際にはそのように運営され、批判を受けた。

その典型的な教育方法の一つに「誰でも同じ合格点」というのがある。

たとえば小学校で漢字のテストをして、「半分できたら合格」とする。児童の中には記憶力の差もあるし、家庭が教育熱心かそうではないかでも違うので、できる児童とできない児童がいる。

でも、同じ学年で同じ漢字が同じようにできないと合格しない。

当然のように思えるが、私には間違った採点方法のように思う.

社会生活をする上で、「このぐらいは必要な漢字」というのはおそらく「新聞に使われる漢字」とか、「公共的な文章で用いられる漢字」だろう。つまりは当用漢字だ。

そのような漢字は数も定められていて、専門家の吟味をへて時々、改訂される.

この漢字を「社会に出るまでに覚える」というのが、まず第一の目標だ。つまり、今の日本は高校全入時代だから、高校卒業までに当用漢字を覚えればよい。

児童の中には将来、指導者になりたいとか、文筆業に進みたいという児童もいるから、難しい漢字を教えても良いが、それは対象となる児童が限定される.

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このように考えていくと、なぜ「一律の合格点」というのが「当然のことのようにまかり通っているのはなぜか?」という疑問が残る.

もし、個人指導なら、一律の合格点というのもありえないし、その生徒が「できが悪い」といって叱る必要もない。その生徒の本来の能力に応じて教育をするのが良いからである.

今の学校教育が「一律の合格点」を決めているのは、おそらく「教師が面倒だから」だと思う。実際にも一クラス40名ぐらいの生徒がいて、一人一人の能力と人生を考えて教育をするわけにはいかないからだ。

ということは現在の教育は「学校側の都合」で、「本来の教育をサボっている」ということになる。教わる側の教育ではない。先生が一人一人の子供に適した教育ができないので、やや「できる子供」を基準にして、「できない子は面倒だから怒る」ということをしているに過ぎない。

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でも、このような議論の時に必ず出てくる「子供不信論」がある。

1)   生徒は競争させないと勉強しない、

2)   バカな生徒は尻をひっぱたかないと勉強しない、

3)   劣った子供は優れた子供より価値がない(劣るということは良くないことだ。だから叱る。)、

というものである。確かにそのような傾向が無いわけではないが、私の教師経験では、それは間違っている.子供は、

1)   競争させなくても勉強する、

2)   能力によらず、その人なりには勉強する、

3)   子供は生きているだけで価値がある、

というのが私の経験である。

「勉強しないと、負けるわよ」

と脅せば子供は勉強するように見えるし、小学校のころはそれが苦痛にはならないこともある。でも、脅さなくても同じように勉強する.そしてその方が長く続くと思う。

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小学校、中学校、高等学校と進むにつれて、ある学科で理解できない事が起こり「一律の合格基準」に達しない生徒がでる。その生徒はせっかくさらに勉強すれば伸びるのに、そこで挫折する。

その損失の方が「脅して勉強させる」ことをしないときの損失より遙かに大きな教育の損失だろう.

日本人はそれほどサボりの民族ではないと私は信じているし、その通りのように思われる.

もっと「一人一人の生徒のための明るい教育」ができないだろうか?

(平成22119日 執筆)