ところで、江戸末期、日本には蒸気機関を作る技術はあったものの、実際の戦艦を操舵するということになると、まだまだだった。
永井玄蕃頭は海軍伝習所における軍艦スームビング号の訓練を担当してその経験から、軍艦を実戦に使用するためには単にその操舵ができると言うことではなく、絶え間なく起こる破損や故障に対処しなければならないことを知った。
江戸時代の人が「機械」を扱うということはほとんど無かったのだから、海軍伝習所の武士たちが、機械の使用方法を学んでも、「機械を動かすとはどういうことか」ということを直ちに理解できなかったとしてもそれは不思議な事ではない。
さらに、独力で、飽の浦に機械工場の建設に着手してみると、大きな困難が待ちかまえていた。
オランダから主要な機械は運んできたものの、日本には工具や補助的な器具はほとんどない。なにか必要なものがあるとオランダまで取りに行かなければならないのだから、とんでもなく非能率であった。それにオランダ人と幕府の官吏との関係もままならない。
21世紀になった現在でも発展途上国の「発展」を阻害している一つの原因として「産業の裾野」の問題がある。大工場や研究所があっても、日常的な補修道具や消耗品がなければ現実には運転や研究ができない。
日本には無数の中小企業がそれを担ってきたが、中小企業の育たない発展途上国では、「細かいこと」ができないのが現実的な業務の支障になっているのである.
そんな状態で進んだ日本初の重工業であったが、それでもやらないよりましで、安政6年には観光丸のボイラーの取り替え工事ができるまでになっていた。
造船所を訪れたイギリスの軍医レニーは、こう言っている。
「八月七日長崎の日本蒸気工場を見学。これはオランダ人の管理下にあり、機械類は総てアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見て回ったが、なかなかの広さであった。
そして、この世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する種々の仕事に従事しているありさまをまのあたりに見たことは確かに驚異であった。」
西洋の文明が届くはずもない、この「世界の果て」にできた日本最初の近代的造船所は維新後、長崎造船所と改称、やがて三菱のドル箱に一つになり、太平洋戦争では世界最大の軍艦「武蔵」を生むのである。
このように日本が他のアジア諸国と違って、ヨーロッパの植民地にならなかったのは、地理的に極東だったこと、日本人の努力と技術力だが、それだけではない。もちろん明治政府の判断、そしてアジア諸国に起こった反乱も日本の独立に関係している.
それが、インドに起こったセポイの乱、と中国の太平天国の乱である。
主としてイギリスの東南アジア征服はアヘン戦争で見られるようにかなり強引で身勝手であった。そのため、征服された民族からは反撃の運動が起こり、それがセポイ、太平天国の乱となり、征服者のイギリスを悩ませた。
この経験をしたヨーロッパは日本に対してすこし緩やかな態度をとり、さらに、日本にはさほど大きな資源が無かったことも、日本が植民地にならなかったことの一因となっている。幸運が続いたのだ。
ただ、軍事力を決める工学的基盤、社会的基盤という点では彼我の間に大きな溝があったという事実は認識しておく必要がある。
嘉永時代、吉田松蔭が苦しみに藻掻いていた頃、ヨーロッパはベッセマーの転炉が出現して巨大な製鋼工場が建設されていたが、萩では長崎から手に入れた図面をもとに、数10年も遅れている技術、反射炉の建設を急いでいたという有様だったのだ。
技術力、規模、いずれにおいてもとても比較になるものではない。萩の反射炉が実際にどの程度使用されたか残された装置を見ると疑問に感じたが、この反射炉が使われても使われなくても、所詮役には立たなかった。
ただ、西洋工学をとにかく早く取り入れて日本を救おうとした意志の現れと受け止めるのが正解だろう。
それよりも、中世には鉄の輸出地帯であった日本の中国地方の製鉄業がその後、なんら発展も拡大せず、時代の波の中に消えてしまい、日本のために活躍すべき時には何の役にも立たなかった方が、日本の工学と文化を考える上で重要だ。
科学の発展は軍事と密接に関係する。確かに、多くの工学や科学は軍事に使用され、軍事に使用されることによって伸びた。
火薬は土木工事に用いられるより多く殺戮に使用された。鉄は生活程度もあげたが、軍艦大砲に使用され、その結果「鉄は国家なり」と豪語された。
鉄の軍艦に乗り、鉄の塊の大砲から鉄の玉が発射され、柔らかい人間の皮膚を破壊する。
しかし、工学が軍事につながるのは万国共通ではない。日本の多くの工学は軍事には結びつかずにむしろ「芸術」に流れていった.
日本刀は優れた鍛造技術で作られ、日本刀の鍔は手を守る部分品であるが、日本刀はその機能を高めるより、芸術品として珍重され、鍔は複雑な模様を描いてさらにその芸術性を高める。国一国の支配より茶器一つという香り高い日本文化が工学の進歩を妨げたのである。
工学の文化は日本文化の至る所に見られる。世界初の大型木造住宅を造り、世界一大きな鋳造仏を作った奈良の工学はその後、更に大きな建造物、更に大型の鋳造品を作って軍事に役立てようとはしなかった。
日本の建築物はむしろ次第に平べったくなり、優雅な建造物へと変身する。そして最後は茶の湯で見られるように「庵一つ」へと還元していく。
奈良の大仏殿を作った建築工学が再び軍事に使用されたのは、織田信長の安土城をあげることができる程度である。鋳造品は軍事にほとんど使用されなかった。
工学が人類の福祉のためにあるのなら、工学が戦争につながる西洋文明より、工学が文化に昇華する日本文明の方が優れているが、江戸末期のような戦闘の時代には日本古来の「芸術化された技術」は役に立たなかったのである。
平和を愛する人間は軍隊に負ける。文化を愛する民族は軍事を大切にする野蛮人(白人)に敗れる.
明治元年3月13日、勝海舟が西郷隆盛との会見に臨むために薩摩邸に向かうとき、すでに江戸は官軍の侵攻に対して防御の策を整えていた。その基本は江戸の町を焦土にすることと、市街地を利用したゲリラの組み合わせだったし、海軍は幕府軍が官軍勝っていたので、将軍は海の方へ逃れる予定だった。
しかし、勝海舟の頭にはスーヌビング号の江戸回航が日本の将来に何をもたらすかを正確に理解していたのだろう。また咸臨丸でサンフランシスコに渡米するときにも、ジョン万次郎、福沢諭吉などと一緒だったことが、彼の判断をさらに強固にしたことは間違いない。
旧幕府を支援するフランス、新政府に肩入れするイギリスの間で、仮に紛争が長引けば、西日本はイギリス干渉のもとでの新政府、東北にはフランスが利権を握った徳川幕府ができて、日本は東西に分裂していただろう.
歴史というのは面白いものだ。260年つづいた徳川幕府がまさにその命運を終わろうとしていたとき、勝海舟のような人材がでて日本の独立を守った。
有名な西郷隆盛と勝海舟の会談はある意味で当然の帰結だったのかも知れない。
技術は奴隷に過ぎず、人の判断はほぼ大脳皮質で行われが、技術がその人の大脳皮質の判断を左右することも確かである.それはやがて明治の元勲たちの判断にもなり、ある時には鹿鳴館に、ある時には小村寿太郎の判断となって、日本の繁栄の道を開いたのだった。
勝海舟は明治政府では役職にも就かなかった。自分は江戸幕府に所属しているという意識が強かったのだろう.そして、江戸城無血開城まで終始、うまくいかなかった主君、徳川慶喜のために明治になっても奔走し、彼の赦免と徳川慶喜家の創設に貢献している.
一見して能吏であり冷たい感じの勝海舟だが、彼は彼なりの人生だった。
ところで、第一章を終わりに当たって、尖閣諸島の事件で問題になった「領土」というのを少しずつ理解していきたいと思う.
日本で「日本の領土」というのを最初に測ったのは有名な江戸時代の「伊能忠敬」である。
1809年 伊能忠敬の地図
忠敬は、日本全図を作るため各地を歩いたのだが、まずは東北から、今の北海道にあたる蝦夷の南と東海岸、そして本州、四国、九州と、ほぼ日本全土の測量を続けた。
離島にも渡って、九州では対馬や長崎の五島、九州に近い天草、種子島、屋久島、そして瀬戸内海の小豆島や淡路島、日本海の佐渡島を伊能忠敬はコツコツと回って測量した.実にたいしたものだ。
ただ、伊豆七島は忠敬があまりに年をとったので、若い隊員だけで測量している.
ところで、当時、北海道は江戸幕府の支配が及んでいなかったので、忠敬も函館あたりと南の方だけ測量している.だから忠敬の地図には北海道はハッキリしないし、同じように沖縄、台湾も明確ではない。
北海道は伊能忠敬から少し後に間宮林蔵が測定して完結するのだが、実は北海道にはすでにアイヌ民族が住んでいて、その土地はアイヌ人のものだったのだ。その意味では日本人(和人)とアイヌ人殿関係はやはり「軍事力の強かった和人が、平和を愛したアイヌ人を圧迫した」という歴史だった.
今、イギリスやアメリカが「昔やった悪いことは知らないよ」と 強気一点張りであることに日本人としては腹が立つことがあるが、それは日本人がアイヌ人にしたことに似ていると言うことも私たちは頭に入れておかなければならないだろう.
それはともかく、江戸時代、伊能忠敬が後半生を捧げて作った日本地図には本当に敬意を払いたい。「領土」とかなんとか言っても、誰かが国土を測量してくれないことにはどうにもならないからだ。
江戸のおわりから明治のはじめにかけての日本の技術、政治、そして最期に少し伊能忠敬の測量について触れた。なぜ、日本だけがヨーロッパやアメリカなどの白人の国家が世界中を征服し植民地にしていく時に、それを免れたのか、歴史は常にある必然性を持っていることを考えると、日本が植民地にならなかったことには、いくつかの理由があると私は考える。
日本の独立をハッキリさせた日露戦争は今からたった100年ほど前のことであり、すでに忘却の彼方にあるが、人類の歴史から見ると本当に最近のことである。
だから、私たちの精神の中に、また日本社会の中に、日露戦争当時の心、仕組みが色濃く残っているのであり、今後の日本を考える時にも、中国などとの国際関係を論じるときにも、子供を育てる際にもとても重要なことであり、選挙権をもつ大人の1人としてないがしろにできない教養の一つではないかと思う.
このシリーズは「現代の日本人が知らなければならない近代日本の歴史」をしっかり勉強するために決して急がずに少しずつ解明していきたいと思う。
(平成22年10月29日 執筆)