江戸時代の実践的哲学者として有名な二宮尊徳は、多くの日本人に尊敬され、私が小学校の頃には校庭に二宮尊徳が薪を背負って歩きながら本を読んでいる銅像がたっていた。
二宮尊徳は農業を中心としてさまざまな実践的な改革を行い、その哲学も深い内容を持っている.
彼は「自然と人間」という関係を次のように捉えている.
自然というのは無道徳なもので、二宮尊徳は「獣の道」(尊徳は「天童」としているが、彼の天道は「人間より優れた天の道」というのではなく、まったく無方向を意味している)と認識した。
つまり、自然は何事も乱雑に、そして滅びる方向に進み、人間以外の生物は自らのことだけを考えて弱肉強食の世界にある、と冷徹に観測しているのだ。
(今の「良い子社会」では、「自然の叡智」と言う言葉が使われ、人間より自然の方が優れているというとらえ方だが、二宮尊徳はかなり現実的である.)
確かに自然をよくよく見ると、森では樹木が乱雑に生長し、掘っておくと「人間から見ると」ひどい状態になる。
また動物を観察すると、力の強いものが弱い動物を捕らえて食べている.その食べ方も「人間から見ると」ひどい食べ方で、殺して肉を食いちぎっている.時にはまだ食べられる方が生きていることすらある。
生物ばかりではない。大地震が来るとそれまで流れていた川が別のところに流れ始める.たとえば木曽川は今の名古屋の市内を流れていたけれど、10万年前の自身で大きく西にずれた。
木曽川ほどの川の流れが変われば、そこに住んでいる生物はほとんど死滅し、環境は激変する.でも「自然」はそんなことをまったく
「考慮せずに地震を起こし、木曽川は大きく変化する」。
つまり、自然は「人間の道徳観」から見ると「まったく非道徳」な存在である.
そうなると次に問題になるのは、「人間にとって」自然は「都合が悪い」ということになる。植物は生え放題、動物は殺し合っているし、川は氾濫する。
それでは「人間にとって」具合が悪いので、人間は自分の都合の良いように自然を改変する.たとえば、杉を植林し、田んぼを作ってイネを育てる。
植林、田んぼ、牧場などは典型的な「自然破壊」であると二宮尊徳は言う.つまり「里山」ほどひどい自然破壊はないということだ。
私も「森林を切り開いて作ったゴルフ場」の写真と「森林を切り開いて作った段々畑」の写真は実に似ていると思う.段々畑がどれほど林や草原、そして森を破壊しているか、それは「人間のためだけ」であることを尊徳は十分に理解していたのだ。
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自然は「獣の倫理」であり、人間は「人の倫理」で、それは真っ向から対立する.この状態は、二宮尊徳の時代の「里山」と、現代の「コンクリートの都市」は同じである.
自然から見ると両方とも著しい破壊であり、人間にとっては獣の倫理から離れた結果である.
だから、人間が自然を考える時に、この原理を十分に理解していなければならないと尊徳は教えたのである.
それから200年、「良い子症候群」の日本人は「里山」を自然保護と言ったり、生物多様性が大切だと言ったりしている.
尊徳が良く自然を理解し、現代日本人が理解していないのは、とりもなおさず、現代人が自然から離れ、何も実践していないことによると私は思う.
(平成22年10月27日 執筆)