ヨーロッパの書物に対して、日本人が他のアジアの国の人と違い、独特に考えたことの一つに,「書物を日本語に翻訳した」がある.

日本が開国した頃、ヨーロッパで発展した学問は,ドイツ語,フランス語,オランダ語,そして英語の原著のままアジア諸国に入っていた。アジアのほとんどの国は原語を読める人がけが知識を独占したが、日本は違う.古くは仏典を日本語に訳して理解したこともあるが,チョンマゲを結った彼らは他の国とはまったく異質な方法を採用し,原著を日本語に訳したのである.

つまり「外国の書物を日本語に訳す」というのはアジアでは特別な考えだった。それには深い文化的背景がある.日本人が一部の人を除いて、外国語の修練が不得意というような理由ではなく,日本で見かけ上は厳しそうだった士農工商のような「階級制、身分制」が他の国のものとは格段に異なっていたからである。

つまり、原著の翻訳は日本国民の「平等」に関係している.

伝えられている長崎海軍伝習所の武士の勉強の有様によると,日本人の語学はまあまあであったが,カッテンディーケ卿が榎本武揚の行状を描写したごとく,

「江戸において重い役割を演じているような家柄の人が,2年来,一介の火夫,鍛冶工および機関部員として働いている」

という特長があった.

江戸時代、士農工商という見かけの厳しい階級とはうらはらに,その本質において階級概念を持たなかった.大名,士農工商の身分区分は、「臨時の役職」のようなもので、いわゆるヨーロッパのように人間の価値をそのまま示す「身分」ではなかった。

日本人の話にしばしば登場する,太閤秀吉なる人物は木下藤吉郎という下っ端武士であり,その人物が位人臣を極め,太閤となると,皆,こぞって太閤の威光にひれ伏す.

これを見てヨーロッパ人は日本人が真に太閤秀吉を奉っておると錯覚するが,太閤自身もまた日本人も秀吉の繁栄は「浮き世の泡沫(うたかた)」ということが分かっている。

たしかに「太閤」は太閤という高い地位であるには変わらないが、それでも太閤様はなにも自分たちとは違わぬと思っていた.そして,それは秀吉の出生がたまたま卑しいからではなく,その「出」がいかに高貴であっても、天皇陛下以外の日本人はみな同じなのだ.

太閤という位は所詮、天皇陛下から「臨時」に与えられた浮き世の最高位に過ぎない。それではまったく尊敬されないので、秀吉は神となって豊国神社に祭られている。

中国では王朝をたてると、どんな下賤の身であっても「天子」と名乗り、その上に誰もいない。庶民が天皇になれる、それが中国でも、ロシアでも、そしてヨーロッパですら同じだった。

江戸幕府は大名に参勤交代を強いたから,大名が街道を練り歩く時には,仰々しい仕立ての行列と街道の両側に這いうずくまる百姓が欠かせない風景であった.

百姓のそういう格好を見て,外国人という外国人は皆,日本には厳しい階級制が厳に存在すると錯覚するし,それはそれで妥当な見方である.

しかし,実態は違う.そこに日本の社会の特長と歴史がある.

土下座している百姓は単に「行列が行きすぎる」のを待っているだけで大名に何らの偉さをちっとも感じていないのである.「ここは頭を下げておくか」というのが日本人独特の感覚であった.

つまり日本には「神代の時代」から一貫して、{神―天皇}、と直結した「特別な存在」があり、天皇の存在によって、日本には完全な平等社会が生まれていた.どんな「高貴」な人でもその人と天皇との差は画然としていて、「高貴な人」と「庶民」との差はとても小さかった.

専門書の話に戻ると、原著を翻訳するということは、外国語ができなくてもその中身を知ることが出来るということを意味していて特権階級が知識を専有しようとする場合にはそれは起こらない。

考えてみると、五稜郭で榎本武揚らが敗北を喫したのは理の当然である.スームビング号の江戸回航はそれが日本人だけの航海だったことを驚くばかりではこの出来事の深さを充分に理解しておるとは言えない.

じつは,この回航は当時の日本の標準をはるかに超えていた.軍事という面でも,当時の科学,社会のレベルから見てもとてつもなく飛び離れていたのである.

従って,よたよたと江戸に進むスームビング号を襲って我が者にしようとする強者も出ようがなく,この浮世離れした戦艦は遠巻きにして見ていただけだった.

榎本艦隊が幕府の崩壊した後も存在し,かつ函館で新政権と本格的な戦いを挑むことができたのは,その陸軍ではなく海軍力であった。しかし,不運なことに榎本武揚は戦艦・開陽丸を座礁で失った。だから,地上に降りた榎本軍は羽をもがれたタカと同じで、それはすでに「技術の後ろ盾」を失っていたのである.

(平成221024日 執筆)