さて、江戸幕府末期には開成所を中心に基礎科学の重要性が認識されていたが、実際にはヨーロッパから来た書物をそのまま読んだり、中国語に訳されたわずかな書物に接するだけだった。

維新直後の福沢諭吉の「究理本」が流布したのもそうした間隙をぬったものと言える。

江戸開成所の大阪移転ののち、神田孝平や箕作麟祥、田中芳男らが大阪に行き、府管轄の舎密局ができた。そして、いよいよ幕府が倒れて社会が騒然となる前からすでに翻訳が開始されていたものに、竹原平次郎訳の「化学入門」や、大阪開成学校でリッテルの口述した「理化日記」、それに造幣の必要性からこれも大阪開成学校でオランダ人ハラマタの口授した「金銀成分」が出版されている。

大学東校の舎長で、その育ての親の一人、石黒忠直が「化学訓蒙」を増訂したのもこのころで,日本人の知識欲の旺盛さについて深い敬意を表さなければならない.

ところで,多くの日本人は,杉田玄白の「解体新書」を知っているが、医学もかなり先取的だった.

明治元年には松山棟庵の「窒扶新論」,大阪医学校発行のバウドインの口述書である「日講記聞」,海軍病院刊行の「講延筆記」などがあり,枚挙にいとまがないといっても良いほどである.

ところで、長崎海軍伝習所でも同じだったが、維新直後の数学は他の自然科学に比べて著しい特異性を持っていた。それは物理化学工学などの分野では、日本はもともと欧米に対抗できるものは皆無で、総てが欧米の一方的輸入直訳だったのに対して、数学は日本国内に固有にものを持っていたからである。

即ち俗に言う「読み書きそろばん」の一つとして商算が根強く庶民の間に浸透していた。その基盤の上に確固とした和算が学問としてあった。

そして、既に算術関係では「塵劫記」のような名著が存在していたので、洋書系の書物にも程度の高いものがあり、その一つとして「洋算発微」があげられる。スームビング号の学習の際にも和算の専門家である小野友五郎が西洋数学の修得も一番だったことが思い起こされる.

数学、理学、医学対して、いわゆる「工業技術」はさんさんたるものだった。わずかに、電信,鉄道,造船,造幣の輸入が進み,明治のはじめには「機械事始」が出版されている.この書物には蒸気機関についての解説が載せられている。

実は、嘉永4年,この年は後に述べるように、吉田松陰が水戸学に接した年であるが、日本人はフェルダム教授の執筆になる蒸気機関の解説書を独力で読み,じつに12馬力の蒸気機関を日本人だけで製作している.

この蒸気機関はシリンダーや弁に漏洩があり,現実には2馬力ほどしか出なかったとされているが,簡単な図面だけを頼りに蒸気機関を作り上げる日本人技術者の非凡な才能に驚嘆せざるをえない.

当時は、ヨーロッパ人ですら,蒸気機関の原理を学び,図面を読むのはよほど骨の折れる仕事であった.

蒸気機関は1712年にニューコメンが原型を作り、1789年にジェームスワットが復水器を考案した。ワットは「蒸気機関の父」と言われるが、彼は慎重はだったので「加圧装置」を使うのを嫌い、それが結果的に蒸気機関の価値を下げていた。

だから、1803年にトレヴィシクが高圧蒸気機関を製作して初めて、人間の社会を変えたこの蒸気機関というものが実用的な機械となったのである。

しかし、原理的に蒸気機関を理解しても、、それを現実に作るためには、設計、鉄の部品製作、シリンダの精度を保つことなど「基盤となる技術」を多く要する.よくそんなものを嘉永年間にやったものだと舌を巻く.

さらに薩摩藩、佐賀藩、伊予宇和島藩が蒸気機関を乗せた黒船を独力で作っている.

21世紀になった現在、日本が「ものづくり」に固執する必要があるかは難しいところだが、明治維新以来、日本が戦争に勝ち続けて一流国になり、戦後、大打撃を受けても工業技術で世界一になり、”Japan as No.1”とまで称されるようになったのは、この江戸末期から明治初期にハッキリとその萌芽が見えているということである。

なにごとにも、「そうなる理由」というものが存在する.そして、「そうなる理由」を良く理解し、日本の国力、日本の特長をとらえておくことこそ、歴史の教える大切なことでもある。

(平成221021日 執筆)

Photo