女性が活躍する場が増えたのか、あるいは男性が女性化しているのかわからないが、1990年頃から日本社会に「家の論理を社会にそのまま適応する」という例が増えてきた。

「家の論理を社会に適応する」というのが良いことかも知れないが、少なくとも私たちは大人として次世代に責任があるので、そのことが良いことかどうかを吟味する必要がある。

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家庭というのは「人」を産みだし、育てる。また、人間は休養や食事が必要であり、家族があって心も落ち着く.老後になると助け合って最期を迎えることもできる。

家庭は川であり、人間の基本的な単位である.

社会は生産や娯楽を提供する.人は家庭から一歩、外に出るとさまざまな面で違いを感じる.服装や髪型を整え、危険に対して備え、そして時に競争をする。

だから、社会と家庭はその機能も役割も、そして構造も違う.

家庭の論理がそのまま社会に適応されたものの一つに「節約」がある。

家庭では「節約、貯金」は大切なことであるが、社会は「節約、貯金」はあまり大切ではない。むしろ「消費と借金」が社会の発展に寄与する。

家庭で貯金をし、それを社会の人が借金をして事業を興し、それで新しい物を作ったり、生産活動をしたり、楽しみを提供する。だから貯金に利子が付くのである。

「節約、物価が上がらない、もったいない・・・」などは一見して良いことのように見えるが、社会では「お金を稼がないで税金をもらっている官僚の論理」である。

官僚は税金を受け取っていて、よほどの事がない限り収入も安定し、失職することもない。だから、できるだけ社会が落ち着いて、少しずつ物価が下がるぐらいの方が良い。

そうすると社会は縮こまり、仕事は無くなるが、それには50年ぐらい時間がかかるので、今の官僚はまったく困らない。

一方、事業をする人(税金を納める人)は、リスクをおって借金をし、新しい技術やビジネスを興し、売り上げを上げて利益を得る。その利益の中から、従業員の給与、税金、保険、などを出す。

だから、この世は事業をする人が儲からなければなにもできない。そして事業をする人は、借金ができる社会、福祉や環境の負担が少ない社会、そして少しずつインフレになる社会を望む.それ以外の経済体制は今のところ発見されていない。

なぜ、日本はまともな発展が続かないのか? それは「官僚と家庭」という「もらって生活する」という立場から、「非生産的、非発展的」な論理がまかり通っているからのように考えられる.

誰かが官僚に渡す税金と、家庭に持ち帰る給料を稼がなければならず、それを大切にする社会がまともである。

そしてその被害者は職を求めて今日も面接に向かう高校生や大学生だ.

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もう一つ。長くなるので、別の機会にしたいが、「節約」などと言うとせっかく「一人の人間」が人生を楽しもうとする利益を失することになる。

人に思想信条の自由があり、その人の貴重な時間の中での活動を制限する「遺失利益」に対する配慮は大切なことである。

社会は、「節約をモットーとする地味な生活」があっている人と、「消費しながらの楽しい生活」を求めている人がいることを忘れてはいけない。

消費、求人率が高いこと、失業の怖れのないこと、楽しく家族や友人と遊ぶことは決して間違っていないと私は思う。

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私は立身出世などはくだらないことと思うが、若い人が将来に希望を持ち、生き生きと生きるのはとても大切なことで、それには「制限が多すぎる社会」は望ましくないと思う.

(平成221019日 執筆)