いよいよ,安政4年4月,日本名「観光丸」と命名されたスームビング号が江戸表へ回航される時が訪れる.

観光丸は嘉永5年にアムステルダムの国立造船所で建造,全長66メートル、排水量730トン・出力150馬力の蒸気外輪船で.現在は復元されてハウステンボスに係留されている.

永井玄蕃頭を艦長として103名の伝習生が乗り組み,日本人がオランダ人の助けを得ることなく単独で洋式軍艦を操舵して,江戸に回航するというのだから,まったく無謀な幕府の計画であった.

初めて蒸気機関を見,鉄で作られた「黒船」に驚嘆してからわずか4年,伝習所で急ごしらえの教練が始まってからわずか2年.東洋の端にあるこの小国のサムライが,ヨーロッパ人の助けを一切受けることなく蒸気駆動の軍艦を回航するなどということは常軌に逸している.

他のアジアの諸国なら怖々と遠巻きにしているだけの時期である.

そもそも,人間の心というものはその人物の生活の中で形作られ,周囲環境を信じて生きているものだ.だから「黒船」というお化けのような物体は遠巻きにして見るのが人というもの.それに乗船するのはもちろん,近づくことすら忌避する.

しかし,日本人はなぜか化け物にひるまなかった.

特に、細面でやさしい顔つきをしていた永井玄蕃頭をはじめ,伝習所学生は平然と将軍の命に従って,異国の黒船スームビング号に乗り組み,あのやっかいな外輪をつけた蒸気船の回航に臨み,江戸に到達したのである.

いったい,「日本人」というのはどういう民族であろうか,驚いたように振る舞って、心の中は驚いていない.恐れおののいているように見えて,内心,相手を馬鹿にしている.偉い人に頭を下げても尊敬はしていない、言いようによっては二重人格かも知れず、その懐は深い.

後に出てくるが、大東亜戦争のガダルカナルの激戦で玉砕した20693人の将兵は最初から作戦が無理で、自分が「犬死に」することは承知で戦地に向かったと感じられる。一兵卒は輸送船の船底で直立不動のまますし詰めになり、

「明治以来の日本の行く末から言えば、ここで俺が輸送船に乗り、遙か南方の島に上陸して、アメリカ軍の自動小銃の前で死ぬのは運命である.」

と覚悟していたのだが、その多くは学問のない農民だった。

日本の一兵卒は、長い日本の歴史を感じ、現下の情勢を分析し、そして、死に行く自分の「居場所」を心得ていたのだ。

ところで,日本海軍が自前で軍艦を作るようになるのはまだ先となるが,独力回航の成功によって日本は彼らの言う「バテレン」の助けなく海を守ることができるようになった意味は大きい.

じつは海さえ守ることができれば列強もそれほど容易には日本を植民地にできない.仮に戦争になり、第1回の海戦で日本の船を殲滅させることができれば別だが,かなりの艦船を残した場合で実力が接近していれば,いつまた日本軍の反撃を受け,遠い異国に上陸した自分の国の陸戦隊が孤立するかは予想できることではない.

それに,日本に触手を伸ばした列強は、すべて白人だったからその意味では一枚板のように見えるが,決してそうではなかった.

アメリカ合衆国とロシア帝国が日本開国の一番乗りでしのぎを削ったように,列強にはそれぞれの思惑がある.そしてもし日本を植民地にできなければ、商業利権を得ようとする。

じつは薩英戦争については後にその戦闘の状態を描写するが、大英帝国東洋艦隊がアジアの小国に負けた戦いだった。奇跡のような結果だが、それは偶然ではないとも思われる.

すでに日本は列強と互角までは行かなかったが、惨めに惨敗を続ける状態ではなくなっていた.そして、スームビング号の江戸回航の真なる意味は,この回航こそが日本独立のあかしだったとも考えられる.

さて,幕府が長崎伝習所から観光丸の回航を命じた直接的な理由は,幕府が膝元の江戸にも海軍教育機関を設置しようとしたことであり,それに長崎という幕府から遠くの地で強大な軍事力が作られていくことの不安もあった.

ここで、日本海軍の教育のその後について若干触れておきたい.

江戸の学校は明治になって「兵学寮」にかわり,生徒は金釦一行の短上衣を着用するようになった.海軍省になってから,幼年生徒は予科生徒,壮年生徒は本科生徒となり,後の予科練へとつながっている.

カッテンディーケ卿が長崎海軍伝習所で教えるときには、日本側の生徒がみな年配者で,カッテンディーケ卿が若い生徒を入れるように幕府に説得したが、だめだったが、若年の教育は明治になって実現した.

その頃の、日本人の中にまだ「志士,壮士」という独特の蛮風は残っていて,兵学寮に「生徒に告ぐ自今庭園内に小便するを禁ず」という禁令が貼られ,教官室で教官と格闘する生徒もいた.

当時、日本人は蛮人でもあり近代人でもあったのだ.

その後、日本の海軍教育は運が良かった.それはイギリス国からアーチボールド・ルシアス・ダグラス海軍少佐という人が士官,下士官,それに水兵を随行して兵学寮に着任したからで、彼は開口一番、

「士官である前にまず紳士であれ」

と言った。札幌農学校のクラーク博士が、

「青年よ、大志を抱け」

と言ったと伝えられているが、生来,優れた素質をもつ日本人は、一言でその言葉に秘められた意味を理解し、取り込む。

海軍ではイギリス国海軍士官の紳士教育,英語と数学の学業を課したことが次の飛躍を約束したのである。