先回、東洋のはずれ、長崎海軍伝習所で武士を相手にオランダ技師の教練が始まった頃,アームストロング砲がイギリス国で発明されていた.日本語で言うと「後装施条砲」・・・後ろから詰めて砲身に条が切り込まれているという意味だが・・・という概念はアームストロング砲の出現によって完成し,その後の戦闘に大きな影響を与えた.
何しろ,それまでのように,大砲の弾を撃つたびに筒を掃除したあと、砲兵が砲身の前に出て,砲弾を込めるのは大変だし,そのたびごとに砲身が動くので照準を定めにくい.それに較べるとアームストロング砲は,砲身の後ろから連続的に砲弾を込め,螺旋状に切った条溝を通過して回転しながら飛び出す仕組みである.
なにかの物を空中に飛ばすときには「回転」が必要だ。野球でもボールが回転していないと「ナックルボール」というようにどちらに行くかわからない・・・バッターには打ちにくいが、標的に正確に届かせるにはとても不都合だ。それがこの時期に分かってきたので、弾丸が回りながら筒先からでる大砲が出現したのだった。
ところで、佐賀藩は進取の気風に富み,長崎防衛の任にあったこともあり,アームストロング砲にことのほか熱心だった.
戊申戦役・上野の山の戦いでは,長州藩の大村益次郎が攻撃の指揮を執り、2門のアームストロング砲が本郷台から不忍池を越して寛永寺に打ち込まれて,彰義隊が大いに精神的に打撃を受けたが、これも佐賀藩のものだった.
さらに,会津戦争では会津鶴ヶ城攻城戦で同じアームストロング砲が小田山に据えられて城の攻城に参加している.
佐賀藩主・鍋島直正はペリーの浦賀来航の3年前には,すでに領内に日本最初の反射炉を建設し鋼の製造を重ね,自らの藩でアームストロング砲を鋳造した.
この佐賀藩の「アームストロング砲鋳造」は佐賀藩の反射炉で製造した鉄を使った砲で、19世紀の半ばにアジアの一国、それも佐賀藩というさして大きく無い地方の政府が独力で製造したことに「ものづくり」に特別の関心を寄せる日本社会があったと考えられる.
実は、この時期、後の日本が歴史を刻んできた驚くべきこと・・・日本海海戦、プリンスオブウェールズの撃沈、ホンダのマン島レースの制覇・・・の萌芽が見られた時期でもあった。それが、このシリーズで触れる「蒸気機関の製作」,「スームビング号の江戸回航」、そして佐賀藩の「アームストロング砲」だった。
余談だが、幕末には伊豆の韮山や佐賀の反射炉は立派なものだった、それに続こうと諸藩が急ごしらえで作った反射炉には役立たずもあった。たとえば長州藩の萩にも反射炉があったが、筆者が詳しい調査したところによると、萩市の反射炉には火を入れた形跡はなかった。下関戦争で使った青銅砲も砲弾もともに輸入品と思われる。
製鉄と言えば、安政2年にイギリス国のベッセマーが転炉を発明している.19世紀の初め、トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求めたのでイギリス国の鉄工業は隆盛を極めていて,それがベッセマーの転炉の発明につながる.
この製鉄の技術は戦闘用武器の発展に結びつき、ヨーロッパの軍事力を飛躍的に高めていった。これに対して,アジア・アフリカで追従できる国は日本以外にはただの1カ国も存在しなかった。
「近代鉄鋼技術の罪」は重い.それはヨーロッパ,アメリカにとっては「優れた」技術だったが,アジア、アフリカ人にとっては「悪魔の」技術になった。技術とは,かくも難しいものである.技術の話と言えば白人しか視野に入っていないが、本当の意味の「技術の受け手」は白人の数倍の人口を要していた有色人種だったのである.
鉄鋼の技術を擁して、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカを席巻し植民地化した勢いから考えれば,開国からまもなくして,日本が植民地になるのは確実と思われた.
日本というこの小さな東洋の島国は,250年にわたって鎖国を続け,蒸気機関や火力の強い武器もなく,サムライと呼ばれる刀を差し,甲冑に抜刀という弓矢で戦う武士軍団を形成していた.
それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に,これまでのアジアの諸国と同様,たちまち植民地となり傀儡政権ができて何らの不思議もない.北海道はロシア,本州はアメリカ,四国はイギリス,そして九州はオランダに分割統治されるであろうと感じるのは当然でもあった。
イギリスが中国を理不尽な理由で攻めたアヘン戦争の激戦,鎮江の戦いでは,イギリス軍の損害37名に対し,清国は1600名の損害をこうむっている.それが19世紀のヨーロッパ列強とアジア諸国との間の戦いの哀しい現実であったのだから、日本の植民地化は時間の問題だった。
(平成22年10月6日(水))