永井玄蕃頭は三河の国・奥殿の大名・松平乗尹の子であった.日本では藩の大きさはそこでとれる米の量(石高)で決めていたのが,奥殿藩は3万石と小さく,おまけに玄蕃は庶子で日陰の身.類い希な才能をもつこの男は,その才能にそぐわない出生から始まる運命だった.

やがて,玄蕃は旗本・永井求馬尚徳の養子となり,永井姓を名乗る.もともと頭脳明晰で穏やか,その永井が江戸末期の昌平黌で学んだのだから,老中・阿部正弘に見出されて徒士頭,目付けと進んだのも頷ける。

この永井玄蕃頭が長崎海軍伝習所の初代の諸取締で,お役目が終わって江戸に帰った後は,勘定奉行,外国奉行,軍艦奉行と位を進め,ついには旗本の最高位である若年寄になる.そして,江戸幕府を終焉させた、かの有名な大政奉還の執筆まで担当し、最後には函館戦争で捕虜となった.

実に数奇な運命だ。

そしてひとこと付け加えれば、後の述べる吉田松陰の第二列目の弟子、天野正三郎こそがこの長崎造船所を作り、そこに幕府側で最後まで抵抗した永井玄蕃頭が初代取り締まりとして赴任している. 

日本では幕末から明治維新にかけて激しく歴史が動いた.そこでは多くの英傑が輩出し,また数奇な運命にもてあそばれた。

それはまさにトルストイの著作に表現されていること,「人間は独立した存在ではなく、歴史の中に翻弄される存在に過ぎない」という真理がこの東洋の国でも同じように見いだされる。

永井玄蕃頭という切れ者の人生が幾多の波乱を経て函館戦争で終焉するのは,まさに歴史の力である。

ところで、永井玄蕃頭が「長崎海軍伝習所」・・・後の三菱重工長崎造船所だが・・・その諸取締に命ぜられたのは安政2年.この伝習所が出現したのは,他でもない,その前々年の6月3日にアメリカ合衆国のペリー提督が2隻の蒸気船・旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号と,2隻の帆船・サラトガ号・プリマス号を引き連れて伊豆の下田に出現したことがきっかけである.これを国際的に見れば、旧式軍艦をひっさげてのペリー提督の日本威喝であった。

このときペリー提督が乗ってきたサスケハナ号は時代遅れの戦艦だったが、鎖国のもとにあって外国からの情報が少なかった江戸幕府はもちろん知るよしもなかった。

そして真っ黒に塗装した蒸気船の効果は抜群で江戸幕府は震え上がり、その後の薩英戦争、下関戦争を経て、日本人は「攘夷」(外国を排斥する)と呼ばれる政策がすでに時代錯誤であることを知ったのだった。

それはともかく、ペリーの浦賀来航に驚愕した幕府はオランダに助けを求め,早くも嘉永6年10月には,長崎奉行・水野筑後守忠徳に命じて,長崎出島のオランダ商館長ドンクル・キルシュスに協力と援助を頼んだ.江戸幕府は250年を経ていたが、案外、対応は素早い。

オランダはさっそく江戸将軍の求めに応じて,安政元年8月,ちょうどその時に東洋にいたオランダ東洋艦隊の軍艦スームビング号を訓練用に回航させた.オランダ国王ビレム三世から将軍にあてたこの豪華な献上品は,当時のヨーロッパ情勢から見ると納得できるものである.

幕府はスームビング号を「観光丸」と命名,長崎奉行所の一部に伝習所を造り,これを長崎海軍伝習所とした.さらに諸取締に永井玄蕃頭尚志,ペルス・レイケン元艦長と下士官,水兵,機関兵22名を教官として雇い,ここに教練を始めたのである.

だが,かのカッテンディーケ卿が記した「長崎伝習所の日々」によると,

「日本人の悠長さと言ったら,あきれるぐらいだ」

とある.カッテンディーケ卿はある時には日本人に辛く,ある時には甘い.だから,卿の記録をそのまま信じることにはできないが,伝習所開設の時に250年の鎖国の眠りから醒めたばかりの日本人の描写としては,あながち間違ってはいないだろう.

そのような日本人ではあったが,ペリー提督の浦賀侵入から2年後には幕府や諸藩から優れた者を選りすぐって長崎海軍伝習所に伝習生を送ったのは特筆に値する.

しかも初期の伝習生から明治の英傑が輩出している.

初代海軍卿・勝海舟,

明治政府になって海軍卿(大臣)に返り咲いた榎本武揚,

初代海軍軍令部長・中牟田倉之助,

大将で海軍卿・川村純義,

初代海軍機技総監・肥田浜五郎,

初代軍医総監・松本良順

など蒼々たるメンバーで,その中で第1期伝習生の学生長はかの勝海舟だ.

余談になるが,函館戦争の時,最後の抵抗をする榎本武揚に正面から幕府海軍をもって弁天台場に猛攻をかけたのは,軍艦・朝陽丸を指揮していた中牟田倉之助,つまり榎本の同期伝習生でもある.

(平成22年10月5日(火) )