第1章           勝海舟、スームビング号を自力回航

明治2年4月9日正午,参謀・山田市之充の指揮する1500人の官軍・第1梯団が蝦夷・江差の北方,乙部に上陸したところから世に有名な五稜郭の戦いの大詰めを迎える.

戦いは今の北海道、函館北方で始まり、時は明治維新直後である。

官軍の戦闘部隊は、右縦隊が江差から松前へ,中央縦隊は上ノ国から木古内へ,そして左縦隊は厚礼部から大野二股口へと,部隊は五稜郭を目指して春の蝦夷地を行軍した。

すでにこのとき,江戸幕府は大政奉還によって崩壊していたが,迎え撃つ旧幕府軍は五稜郭に立てこもり,その大将は中央に陸軍奉行大鳥圭介,右翼に陸軍奉行並、あの新撰組の切れ者・土方歳三であった.

旧幕府軍の大将たちは歴戦の勇士で傑物揃いであり,相手がいかに「官軍」であろうとも、緒戦の木古内口,二股口の戦いから暫くは旧幕府軍が優勢のうちに函館戦争が進んだのも頷ける.

しかし,蕩々と流れる歴史の流れは少々の勇士が集まったからと言って押しとどめることはできない.官軍は第3梯団,第4梯団を増強し,次第に旧幕府軍を圧迫して函館に到るのである.

戦闘は5月11日に移り,いよいよ官軍の函館総攻撃が始まり,旧幕府軍は次第に追いつめられて函館市にある五稜郭.現在は公園になっている弁天台場に後退する.

その後も、旧幕府軍の応戦,利あらず,名だたる武将,栗原仙之助,津田丑五郎,武部銀治郎,長島五郎作が相次いで討死していく.戦況を案じた土方歳三が額兵隊,伝習隊,見国隊,神木隊を率いて出陣したが,敵弾を腹部に受け馬上からもんどり打って転落,あっさり戦死した。

実に運命の流れとはかくのごときものだ。

土方歳三は,かの有名な新撰組の副長であり,旧幕府軍の中核であったから、土方を失いまもなく旧幕府群が崩壊したのは当然でもあった.

弁天台場が降伏して4日後には,さしもの五稜郭も落ちて「五稜郭の戦い」,これを正式には「函館戦争」と呼ぶのだが・・・それが終わりをつげた.弁天台場の戦いで函館奉行・永野玄蕃頭(あまり知られていないが、是非、この名前を覚えてもらいたい),さらに最後の五稜郭では総大将・榎本武揚の2人の大物が捕虜となり,東京に送られて投獄された.

さて,もともと大政奉還で政治権力のすべてを明治新政府に渡したはずの幕府軍が,当時は地の果てだった函館でこれほど大規模な抵抗ができたのはなぜだろうか?

すでに、勝海舟と西郷隆盛の会見によって,江戸城は無血開城され,徳川第15代将軍慶喜は将軍職を解かれて隠居した.日本人ほど潔く,武士は面目を重んじてたちまちに切腹することを思い起こせば,江戸城の無血開城はおどろくべき事件である.

しかし,これほどの事件がそれに関係するすべての人を忽ちの内に納得させることはできない。上野の山では彰義隊が意地を見せて敗退し,会津藩や東北親藩も白虎隊などの決死隊を立てての激しい抵抗がそれを示していた.

江戸にいた榎本武揚率いる幕府海軍も降伏しなかったが、これは上野で抵抗した武士団と同列ではない。

榎本の海軍は幕府の正規軍であり,しかも江戸開城の時に東京湾内にいたので,江戸城開城とともに降伏するのが筋だ.ところが,榎本は徳川家処分を睨んで海上にとどまり,主君の行く末を見て,敗残兵を収容して東北に向かった.

このとき,官軍が榎本武揚の軍勢に手も足も出せなかったのは,幕府は過ぐる数年前,オランダに400馬力,大砲26門という世界でも最大級の戦艦開成丸を発注して保持していたからである.

これでは、陸上で圧倒的な勝利を収めた官軍もどうにもならない.簡単にいうと江戸城は開城されたが、海上はまだ江戸幕府だった.

このことを振り返ると、源平合戦のあとの平家滅亡の時、つまり幕末から650年を遡った時代を思い起こす.

平家もまた,その最後に天皇を海上に擁し,そして海上で散ったのである.日本人は海の民族だから、平家も榎本も破れはしたものの、海に散るのは日本人の本懐だ.

榎本武揚,勝海舟はこのように歴史の表舞台に立ったが,大政奉還の原稿執筆に当たったのは,(さきほど覚えておいて欲しいと言った)永井玄蕃頭であり,彼こそは日本海軍の生みの親となる長崎海軍伝習所を経営し,榎本武揚,勝海舟を育てた人物でもあった.それでは,彼らの数奇な運命をたどって函館戦争から長崎海軍伝習所まで遡ることとする.

(平成22年10月3日(日))