私にとって衝撃的だったのは、2年ほど前にある中学校で講演したときのことである。演題は「環境」だったが、私はリサイクルとか温暖化を話したのではなく、約200年前からの人間が行ってきた科学技術と自然との関係に触れた。

講演が終わって中学3年生の生徒会長が答礼をしてくれた。約3分ぐらいで私の講演をサマリーしたが、その立派だったこと、私はその中学生とまったく面識は無かったが、目頭が熱くなった。「こんなに立派な中学生がいるのか。それなら日本は・・・」と思ったからだ。

でも、サマリーの後に彼は次のように言った。

「ボクは今まで科学技術は人間に対して悪いことばかりをしてきたと思っていましたが、今日、先生のお話をお聞きして科学技術は悪いことも良いこともしたのだということを知りました。」

日教組が主導した戦後の科学技術教育では、科学技術は原子爆弾を作り、公害を起こし、交通事故で悲惨な人たちを生み出したと教え続けた。

最近では、「リサイクルしないとゴミが街にあふれる」とか「CO2を出すと地獄になる」などとさらに「物質文明」に対する攻撃を強めている.

そのように教える先生が、瞬間湯沸かし器を使い、水洗トイレ、冷蔵庫、テレビ、はてはエアコンに自動車まで利用しているのに、そして、そのような文化的な生活によって日本人の寿命はここ100年で40才から80才へと2倍に伸びているのに、それを棚に上げている.

科学技術の全てが悪いなどと、ちょっと考えればおかしいことは分かるのに、世に「自虐史観」というのがあるが、まるで「自虐科学観」である。このままだと、年を経るごとにますます嘘の科学技術観が蔓延して事実から離れると心配である.

日本の子供たちに「科学技術は悪だ」と教えたのは、知識人、文化人、そして左翼思想を信奉した人々である。一部の新聞やテレビは未だに「科学技術は悪いのだから、正しくないことを知っていても、科学技術を悪く言うためには誤報を続けても問題は無い」という報道態度を取っている.その結果、日本人の多くは科学技術を駆使しながら、それを恨むという精神分裂状態に落ち込んでいる.

そして、社会の矛盾を「科学技術」に押し込むことによって、政治問題、社会問題、教育問題、国際問題をすべて封じ込めて、「経済発展のために環境問題は役に立つ」などと言っている.

日本の将来を危うくするこのような状態をどのようにすれば打破できるか、簡単ではないが、少なくとも科学技術の歴史と役割を正確に述べておけば、かならず将来の日本の役に立つと考えられる。

科学技術がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、科学の名に値しない。

科学は、それが道徳的に正義であるか罪悪だったかを対象とするものではない。現代の人類や生活にとって良かったか悪かったかを判断する場でもない。科学に道徳的価値判断を介入させてはいけない。科学は法廷ではないのである。

科学技術を生み出す科学者および技術者は全人格的に特別に優れており、将来を予見し、哲学に通じ、なにが幸福かを熟知している人間ではない。また、短期的にも国家の政策や経済に精通している分けでもない。

だから、科学技術に道徳的な正義を求める考えは、戦後の一時期に自らの知恵が最高であると錯覚した知識人の間で発生しただけで、すでに時代遅れである.

科学技術はその産物をショーウィンドウに飾るだけでよく、それを社会に勧めることはできず、かつ棚に飾るのを躊躇してもいけないのである.

科学技術のフルーツはあくまでも社会が選択するものだからである。

私の考えを少しだけ追加すると、もし科学技術に非があるとすれば、多くの人が科学技術の神髄やその歴史、そして社会における役割についてあまりに知らなかったこと、科学技術は利権と結びつくので、多くの人の無知につけ込んだ事が挙げられると思う.

たとえば、リサイクルは年間5000億円の利権になるので、リサイクルのシステムを法律で決めるときには「このままでは後、8年でゴミが街にあふれる」と言い、現実にはもっとも量の多いゴミのリサイクル率はわずか2%(政府発表。武田の調査では1%)なのに、廃棄物貯蔵所の寿命は100年を越えている.

科学技術についての国民の無知も問題だが、それを利用して利権をむさぼろうとした知識人も感心しない。

すでにお年を召した人が、これからの日本を背負う子供たちに「利権のためにウソを言う」というのはやめにしたいものである。

(平成20年10月1日)