学生と話していましたら、「人間はなにか取り柄がある」と言われてきたそうです.そして何かというと「取り柄」とか「特長」を書かされるとも言っていました。だから、22才のその男子学生はこれまで自分の「取り柄」を探し続けてきたようです.

私 「人間に取り柄とか特長というのは要らないと思うけれど」

学生「でも、書かないと落ちるんです」

私 「そう!? 人間の8割はなにも取り柄が無いと思うけれど」

学生「でも、探さないと落ちるんです」

私 「そう!? 無理矢理、取り柄を探すの?」

学生「ええ」

私 「そうなると、たいした取り柄でもないものを書くことになるね」

学生「ええ、だから挫折するのです」

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人間の価値は取り柄があることではない。生きていることそのものなのだ。

朝起きて、ご飯を食べ、楽しく生活し、そして寝る・・・それが人間としてもっとも高い価値だろう.

野のバラも何の「取り柄」が無くても美しく咲いている.その美しさは「他のバラ」と比較をすると、あるいは「取り柄」とは言えないかも知れない。でも野のバラはそれで完璧だ。

空のヒバリも何の「取り柄」が無くてもさえずっている。その声は「他のヒバリ」と比べると、あるいは「取り柄」がないかも知れない.でも楽しそうにさえずっている.

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たまに「取り柄」のある人もいる。たとえばイチローだ。抜群の野球センスと厳しい練習.そして世界に誇るイチローが誕生した。

彼には野球という取り柄がある。尊敬されるしお金ももらえるだろう.でも、だからといって彼が何の取り柄が無い人と比較して「価値がある」とか「人生が幸福だ」などということはあり得ない.

「生きていること」、「楽しいこと」、「他人に迷惑をかけないこと」の3つが人間の価値だろう.

その点から言えば、「取り柄のある人」というのはその人がいるために他の人が圧迫されるから、他人に迷惑をかける.

つまり、「取り柄」とか「特長」がある人は、取り柄のない人より人間としての価値が低いと私は思う.

学校の成績が1番の人は、その人がいなければ2番の人が1番になることができる。1番から30番までがいなければ31番の人はお母さんに褒められて、もしかするとお小遣いをもらえるかも知れない。

だから、1番の人は31番の人のお小遣いを取り上げていると私は思う.

社長がいるから専務は社長になれない、教授がいるから助教授は教授になれない、足の速いのがいるから一等にならない・・・取り柄のある人間とは困ったものである。

それにしても、「取り柄」や「特長」がなければ「落ちる」というのはどういう訳だろうか?学生は「何度も「特長」を聞かれるのです」と言う。いったい、学校教育って言うのはそれほど哲学がなく、ただ、懸命になって「競争人間」を作ろうとしているのだろうか?

人間は競争して立派になるのではない。競争して出世した人にろくな人はいない。

そして「人間は誰にも取り柄がある」などという、現実とは離れ、人間を苦しめる意味の無いコピーが横行している.

「命の価値」というのは、「取り柄」でも「優れている」ことでもない。生きて、楽しく、そして迷惑をかけない・・・それだけのことだ。

それでも野球をしたい人、数学が得意な人、読書に夢中な人はいるのだ。なにも心配はない.

(平成22918日 執筆)